スプートニク日本
内田樹氏寄稿
最初に、元号に対する私の基本的な立場を明らかにしておく。元号を廃し、西暦に統一すべきだという論をなす人がいるけれど、私はそれには与さない。それぞれの社会集団が固有の度量衡に基づいて時間を考量する習慣を持つことは人性の自然だと思うからである。
文化的多様性を重んじる立場から、私自身は日本が固有の時間の度量衡を持っていることを端的に「よいこと」だと思っている。元号は645年の「大化」から始まって、2019年の「令和」まで連綿と続く伝統的な紀年法であり、明治からの一世一元制も発祥は明の洪武帝に遡るやはり歴史のある制度である。ひさしく受け継がれてきた文化的伝統は当代のものが目先の利便性を理由に廃すべきではない。
その上で新元号についての所見を述べる。
新元号が発表された直後からネット上では中国文学者たちから万葉集の「初春の令月、気淑しく風和らぐ」の出典が中国の古詩(後漢の張衡の『帰田賦』にある「仲春令月、時和気清」)だという指摘がなされた。岩波書店の『新日本古典文学大系』の当該箇所にも典拠として張衡の詩のことが明記してある。「史上はじめての国風元号」を大々的に打ち上げた割に、「空振り」だったわけである。
2016年に天皇陛下が退位を表明されたが、それは改元という大仕事に全国民が早めに対応できるようにという配慮も含まれていたはずである。しかし、官邸は政権のコアな支持層である日本会議などの国粋主義勢力に対する配慮から、元号発表をここまで引き延ばしてきた。「国風」へのこだわりもこの支持層へのアピールに他ならない。そういうイデオロギー的な配慮が先行して、元号制定そのものへの中立的で冷静な学術的検討がなおざりにされた結果の「空振り」とすれば、これは看過することができない。
元号は、天皇制に深くかかわる国民文化的な装置であり、すべての国民が心静かに受け入れられるように最大限の注意をもって扱うべき事案である。安易に党派的な利害に絡めたり、経済波及効果を論じたりするのは、文化的伝統に対して礼を失したふるまいと言わざるを得ない。
残念ながら、どれほど文化的多様性を称揚しようと、グローバル化する世界で国際共通性をもたない紀年法は遠からず事実上廃用されることになるだろう。この流れを止めることは難しい。わが国の一つの文化的伝統がやがて消えてゆくことを惜しむがゆえに、今回の「改元騒ぎ」がいくたりかの人々の「元号離れ」を加速したことを私は悲しむのである。(寄稿はここまで)
ここロシアでも日本文化への関心は高い。「令和」が発表されて間もなく、ネット上ではロシア語による複数の解説記事が登場した。ロシア人には「令」の意味が難しかったため、当初は様々な説が飛び交ったが、一日が経過し、すでに本来の意味の解説が登場している。以下、新元号の発表を受けた、ロシアの日本研究者の見解をご紹介しよう。
ドミトリー・ストレリツォフ氏(モスクワ国際関係大学教授)
新天皇の即位と改元は、日本の国内外で緊張をもたらしている諸問題を「ネガティブな過去」のものにするのに適している。諸問題とは、外交で言えば地政学バランスをすっかり変えてしまった中国の存在、内政で言えば、停滞し、安定成長の兆しが見えない経済だ。しかし日本はこれまでの伝統を守ろうとしているだけなのだから、改元という出来事を必要以上に象徴化する必要はない。日常生活の中では、もう3分の1の日本人しか元号を使っていないという。あまり実用性がなくても元号を残そうと、日本人は努力している。日本文化というのは現代のグローバル社会にあってとてもユニークなものなので、ロシアを含む諸外国からも特に注目が集まっているのだろう。
ワレリー・キスタノフ氏(ロシア科学アカデミー極東研究所日本研究センター長)
「令和」という元号は、詩的な響きで素晴らしい。しかしこれを政治と直接結びつけるのは、非常にあいまいで抽象的だ。私は「令和」を、純粋に、新しい時代が良いものであるようにという日本人の願いだと捉えているので、政治的な隠された意味などをあえて探すべきではないと思う。
ヴィクトル・クジミンコフ氏(ロシア科学アカデミー極東研究所日本研究センター・シニア研究員)
平成といえば日本経済が「失われた時代」で、逆に中国が日本を追い抜いた時代だ。このことは日本政府の懸念事項だ。出典をあえて「国書である万葉集から」としているのは、日本のアイデンティティを強調し中国との間に一線を引きたいということだと思う。日本は新時代に、アジア太平洋地域のリーダーの座を争う用意があるという意思表示ではないだろうか。