サハリンで姿を消す日本由来の狭軌鉄道

日本統治時代に作られた8キロにおよぶサハリンの狭軌鉄道が改修工事のために閉鎖される。9月30日、日本統治時代に敷設された鉄道のホルムスクーニコライチュク間で、最後の列車が運行された。この区間は南サハリンが日本に統治されていた当時のまま残されていたものだが、今回の改修工事により、日本時代の1067ミリの狭軌規格からロシアの標準である1520ミリの広軌規格へと切り替わる。また古い列車はディーゼルエンジンのレールバスに変更される。
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日本の遺産であるサハリンの鉄道

狭軌鉄道は、日露戦争の結果として締結されたポーツマス条約に基づき、サハリンの北緯50度以南が日本に割譲された1905年以降から存在してきた。この地は日本にとって、非常に重要な石炭、木材、水産物を入手できる場所であり、これらすべてを運搬しなければならなかったため、日本はすぐに鉄道の建設に着手した。まず短い期間で、ドイツの規格である600ミリの軌間で数十キロの鉄道が敷設されたが、その後、南サハリンの鉄道は日本の国鉄と同じ1067ミリに改められた。日本が敷設した鉄道の出発点は、アニワ湾の北端にあるソロヴィヨフカ村(貝塚)で、そこから最初の路線で、樺太庁が置かれた街から最寄りの港までを繋ぐ豊原―大泊(ユジノサハリンスク―コルサコフ)線の敷設が始まった。当初、樺太鉄道は独立した2本の鉄道として敷設され、西の路線はタタール海峡(間宮海峡)沿いに、そして東の路線はオホーツク海沿いに作られた。

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しかし1920年代末には、この2本の路線を連絡する目的で、豊原―真岡線が敷設された。この路線は勾配やスパイラルを備えた山岳路線であった。1906年から、40年にわたる日本統治下で、南サハリンには700キロを超える鉄道が建設され、そこではおよそ7,000人が作業に従事した。鉄道では127の駅、618の橋、24のトンネル、その他多くの建造物が作られた。


ソ連時代の南サハリン鉄道

1945年に第二次世界大戦の終結に伴い、サハリン全土がソ連に組み込まれ、南サハリンの鉄道は国有化された。1947年に居住区や鉄道駅の改称が始まったが、深刻な問題となったのが人員不足であった。というのも、1946年初旬、鉄道員の95%が日本人だったからである。日本人の引き揚げと人員の入れ替えが終了したのは1948年の末になってからであったが、戦後の労働力不足から、南サハリンではその後も長きにわたって、鉄道は以前と同じ形で運行されていた。軌間も変更されず、日本の機関車および列車が使われていた。しかも、ソ連で列車の使用期限が切れると、サハリンの狭軌鉄道のために日本で新たな車両を買い付けていた。

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しかしながら、狭軌鉄道はサハリンの経済発展を妨げるものとなった。サハリンと大陸を繋ぐ唯一の交通手段は、ワニノ―ホルムスクを結ぶフェリーだけだったからである。鉄道はここで往きも帰りも、狭軌台車から、広軌台車に“履き替え”なければならず、この作業にはかなりの時間と費用がかかった。そして2003年、サハリンにあるすべての鉄道の軌間をロシア全土の標準に合わせ、同時に老朽化したインフラを一新することが決定した。現在、政府は貨物輸送量を拡大し、輸送スピードを向上し、旅客サービスの質の向上させる計画である。


サハリンの郷愁

サハリンの鉄道を広軌に変える最後の段階を迎え、日本のメディアは、有名な作品「銀河鉄道の夜」などでこの鉄道を絶賛した詩人で作家の宮沢賢治について、思い起こしている。

1923年8月、宮沢賢治は結核で亡くなった妹を思いながら、南サハリンへの旅を終えた。この旅行で、宮沢賢治は南から北へと鉄道に乗り、当時、日本の最北の駅だった栄浜まで移動した。宮沢賢治は、他でもないこの旅からインスピレーションを得て、亡き妹のための詩「オホーツク挽歌」と、アニメ化もされ日本でも人気のある小説「銀河鉄道の夜」を書いたとされる。しかし樺太(サハリン)のロマンティックな雰囲気にインスピレーションを受けたのは、宮沢賢治だけではない。サハリンは、北原白秋、譲原雅子、小熊秀雄、寒川光太郎、宮内寒弥など、ここで生まれた、あるいはここに滞在した、またはここを旅した多くの文学者の作品作りを大いに刺激した。

日本の狭軌鉄道が姿を消しても、サハリンにある樺太時代の文化が消滅するわけではない。そこには当時の多くの建築物や使われなくなった鉄道路線の一部、美しいトンネル、建造物、そして日本の観光客の郷愁をそそる多くのものが残されている。

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