ロシア国防省は終戦75周年に合わせて「道理にかなったフィナーレ」と題した新たなマルチメディアコンテンツをサイトで公開した。そこには第2次世界大戦の最終段階に関する機密解除された文書が公開されている。作戦マップ、諜報報告書、命令書、ソ連と日本の外交官及び軍事指揮官の交渉プロトコルなどがある。
1945年2月のヤルタ会談で米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相は、ソ連が極東で同盟国をサポートし、ドイツ降伏から3か月以内に日本に宣戦布告することを約束する協定を結んだ。この見返りとしてルーズベルト大統領とチャーチル首相はサハリン南部とクリル諸島(千島列島)をソ連へ引き渡すことを認めることに同意した。
その前、日本政府は夏の初めからこれを回避しようと試み、ソ連との外交的接触を確立、単独の交渉では領土に関して譲歩する用意さえあった。だがスターリンは戦争をせずに領土を返還するという日本政府の提案に同意することは、同盟国によってヤルタ協定違反と見做される可能性があると判断した。
北海道への上陸作戦は、8月22日または23日に開始される予定だった。スターリンはトルーマン米大統領に北海道北部を戦略する計画について説明し、これはソ連の世論にとって特に重要な意味を持っているとし、1919年から1921年にソ連の極東全域は日本軍の占領下に置かれていたからだと指摘した。これに対してトルーマン大統領は、極東のソ連軍総司令官に対して降伏することになる地域にクリル諸島全体を含めることに同意した。一方、トルーマン大統領は、ソ連軍による北海道北部の占領計画を断固として拒否した。この時すでに米国は広島と長崎に原爆を投下しており、その結果、日本の降伏は事実上、すでに決まっていた。しかし、ほぼすべての戦場で日本軍の残った部隊が自暴自棄な抵抗を行っていた。これはクリルとサハリンでの作戦にも影響を与えた。日本軍の残った部隊の抵抗は、北海道上陸が予定されていた時までに終わらなかった。
一方、この問いに対して正確に回答することを可能とする文書は、まだ研究者の手に渡っていない。これらの文書は今も「機密」という印がつけられたまま保管されているのかもしれない。あるいは、そのような文書は最初から存在せず、スターリンの口頭による命令で決定されたのかもしれない。
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