ロシアで機密解除 昭和天皇の引き渡しを米国に要請したソ連外交文書

第二次世界大戦時の生物・細菌兵器の開発と使用の罪で、日本の主要な戦犯を引き渡すよう求めたソ連外交文書を米国が無視していたことが分かった。ロシア外交政策アーカイブの機密解除文書で明らかになった。名簿の筆頭は昭和天皇だった。
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名簿の48名

今回、機密解除となった文書は、ヴィシンスキー外相宛報告、スターリン宛報告書、また細菌兵器の開発および使用の罪を問われる日本の戦犯をソ連に引き渡すよう米国指導部に求めたソ連外交文書など。
ロシア連邦保安庁 日本軍の対ソ戦準備を証明する文書、機密解除
ソ連外務省極東第2部長を務めたエフゲニー・ザブロディンは、マッカーサー連合国最高司令官に書簡を出すことを提案。細菌兵器開発に関わった旧日本軍司令部に対する1949年末のハバロフスク裁判の結果を記述するものだった。
マッカーサー司令官宛の書簡には、実験に関わったが裁判対象になっていない相当数の日本の戦犯に対する徹底した調査を行うよう求められていた。
ザブロディンは書簡に、ソ連国外にいるものの、裁判で名前が挙げられた日本の戦犯名簿を添付している。
名簿の筆頭は裕仁天皇(昭和天皇)で、次に細菌兵器の開発・実験に携わった731部隊(正式名称:関東軍防疫給水部本部)初代部隊長の石井四郎、100部隊(同:関東軍軍馬防疫廠)の若松有次郎獣医少将が続く。さらに名簿には731部隊2代目部隊長の北野政次、関東軍総参謀長を務めた笠原幸雄、昭和天皇の弟である三笠宮崇仁親王、同じく皇族で陸軍参謀、731部隊の担当参謀を務めた竹田恒徳も含まれている。
ソ連、2島引き渡しで解決目指す 極秘文書=共同通信
さらに名簿にはペストノミを使った杖の設計者である田中淳雄、炭疽菌を詰めたチョコレート使用を提案した太田大佐、1940年に対中国の細菌兵器使用に関わった鈴木少佐と野崎少佐の名もあった。

ソ連側の論拠

戦犯として裁判にかけることを目的に5人の引き渡しを求める米国政府宛文書案は、承認を受けるべくスターリンに提出された。
対象の5人とは昭和天皇、石井731部隊初代部隊長、北野731部隊2代目部隊長、若松100部隊獣医少将、笠原関東軍総参謀長。ヴィシンスキーによると、この5人全員は「細菌兵器開発と使用に関与している」と1949年ハバロフスク裁判で日本人が証言している。
外交文書案には「日本の帝国主義者は自身が仕向けた攻撃的戦争において、平和を愛する諸国民に対して細菌兵器の使用を計画していた。細菌兵器は軍隊への攻撃、また高齢者、女性、子どもを含む一般市民への攻撃を目的とし、ペストやコレラ、鼻疽や炭疽菌などの致命的な疫病を拡散させるという大規模な使用が想定されていた」とあった。
また文書案には、これら兵器は日本軍の細菌部隊である731部隊と100部隊により開発されていたこと、両部隊は昭和天皇の命、陸軍省および参謀本部の指示により特別に編成されたものであることも記されていた。
両部隊の組織編制や活動内容などの詳細な説明もあった。
第二次世界大戦の戦線における化学兵器と細菌兵器
文書案ではさらに「ソ連、中国、モンゴル、米国、英国の国民に対して致命的な細菌を使用するための準備として、日本の狂信者はこの大量殺戮兵器を中国とソ連を中心とする数千人に対して人体実験を行った」ことも指摘。
また731部隊だけでも「非人道的な犯罪実験を行うことにより、3000人以上の残忍な殺害に関与した」と述べている。
ハバロフスク裁判では、細菌兵器を日本軍が開発していただけでなく何度か使用していることも証明されている。1939年にハルハ川付近でモンゴルとソ連に対し、また1940-42年の日中戦争時に日本軍「細菌調査団」がペストとチフスを流行させた。
文書では、1925年のジュネーブ議定書「戦争における窒息性、有毒、および類似のガスおよび細菌性物質の使用禁止」を含む、当時の国際規範について言及されている。
最後に「ソ連政府は戦犯として裁判に処するため、人類に対する重大犯罪に問われる裕仁天皇、石井四郎、北野政次、若松有次郎、笠原幸雄をソ連当局に引き渡すよう求める」と文書は結ばれている。
ソ連の外交文書は1950年2月1日にアレクサンドル・パニュシキン駐米ソ連大使によりディーン・アチソン国務長官に手渡されている。しかし米国側はソ連側の主張を無視し、ソ連が要請した5人を引き渡すことはなかった。
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