ミハイル・ゴルバチョフ氏は、1931年3月2日、ロシア南部のプリヴォルノエという村のロシア系ウクライナ人の農家に生まれた。彼の両祖父は、それぞれ異なる時期に弾圧を受けている。第二次世界大戦がはじまると、彼の父は前線に出兵し、ゴルバチョフ自身も10歳の時にドイツ軍の占領を経験している。1950年、ゴルバチョフ氏はモスクワ大学法学部に入学。優秀な成績で卒業後、同氏は長年に渡りコムソモール(共産党の青年組織)やスタヴロポリ地方のソ連共産党組織の指導部で活動した。エネルギッシュな活動と指導力からゴルバチョフ氏はモスクワに呼ばれ、そこで彼は政治家として急成長を遂げることとなった。 1990 年 3 月、ミハイル・ゴルバチョフ氏は、旧ソ連人民代議員の臨時大会で、全会一致で旧ソ連大統領に選出された。
ゴルバチョフ氏が高位の政治家として活躍していた頃、旧ソ連では全世界に影響を与える出来事が起こった。それは、旧ソ連のシステムを改革しようとする大規模な試みで、「ペレストロイカ(立て直し)」や民主的選挙の導入、共産主義イデオロギーと共産党独占の排除、言論と報道の自由の宣言、経済の市場システムへの移行などが取り組まれた。また、冷戦の終結や、東欧の共産主義体制の崩壊、チェルノブイリ原子力発電所の事故、アフガニスタンからのソ連軍の撤退、ドイツの統一なども挙げられる。そして、旧ソ連の崩壊という事態が起こった。このことで、旧ソ連時代を懐かしむ多くの同胞からゴルバチョフ氏は非難された。
外交政策では、ゴルバチョフ氏は軍縮問題に焦点を当て、米国および西欧との関係を改善しようとした。1987年12月、ゴルバチョフ大統領と米国のレーガン大統領は、無期限の中距離核戦力全廃条約に調印し、そのことが旧ソ連と米国の対立における緊張緩和に向けた大きな一歩となった。
1990 年 10 月 15 日、ミハイル・ゴルバチョフ大統領は、ノーベル平和賞を受賞した。ノーベル委員会の公式発表では、この賞は「和平プロセスにおけるゴルバチョフ氏の重要な役割が認められた」ものであり、東西関係に大きな変化をもたらし、対立は交渉に代わり、多くの欧州諸国が「自由を手に入れる」ことになったと指摘した。
1991 年 4 月 16 日、ゴルバチョフ氏は、日本への公式訪問をはじめて行った。
その際、明仁天皇がゴルバチョフ夫妻を招いての晩餐会を催した。また、海部俊樹首相との間で、旧ソ連と日本の平和条約締結問題を含む二国間関係の発展について交渉が開始された。激しい交渉が数日間続いたが、具体的な進展はもちろん、両国の考えが歩み寄ることはなかった。1992 年と 93 年、ゴルバチョフ氏は、ゴルバチョフ財団の総裁という社会活動家として日本に招待されている。
1991 年 12 月 25 日、11 の連邦共和国の首長がソビエト連邦解体に関する協定に署名を行った後、ゴルバチョフ氏は旧ソ連大統領を辞任した。 1996 年、ゴルバチョフ氏はロシア連邦大統領に立候補したが、獲得した得票率はわずか 0.51% だった。1999年、妻が白血病で亡くなった後、ゴルバチョフ氏は社会的・政治的活動から身を引き始め、本の執筆に専念した。その数は10数冊に及び、多くの言語に翻訳されている。
日本の岸田文雄首相は、他の世界の指導者たちとともに、ゴルバチョフ氏の逝去に対し、哀悼の意を表明した。同首相は31日の記者会見で、「彼は、核廃絶に賛同する世界のリーダーとして大きな功績を残された。彼は、旧ソ連と米国との間で史上初となる核兵器削減条約に調印し、世界を冷戦の終結に導いた人物だ」と語った。
ゴルバチョフ氏自身は、彼の政治的信条を次のように述べている。
「私は政治と科学、倫理、道徳、人々への責任を結び付けようとした。すべてがうまくいったわけではないが、このアプローチが間違っていたとは思わない」