大空襲への準備
米国は、遠距離型爆撃機ボーイング B-29 スーパーフォートレスを開発製造するや、日本の軍事施設へに空襲を開始した。とはいってもB29の設計はその開発に注がれた力と資金にかなうものではなかった。比較のためにマンハッタン計画をひくと、原爆の製造には20億ドル(2721億8000万円)が費やされたが、遠距離爆撃機の製造は30億ドル(4082億6000万円)もの国費がかかった。しかも日本の戦闘機の反撃は実際的な成果をもたらすようになっており、1945年2月だけでも75機のB29がパイロットを載せたまま撃墜されていた。
このため莫大な経費を食ったB29の製造プロジェクトを何としても迅速に正当化する必要が生じた。そこで持ち上がったのが首都東京を絨毯爆撃するという構想だった。厳密な編隊を組まず、夜間、高度2000メートル以下で空襲を行う。こうした攻撃は前例がなかった。
東京の下町を爆撃する。搭載する爆弾は焼夷弾のクラスター爆弾とナパーム弾が想定されていた。このような場合、爆撃の対象を絞ることはできない。だが、爆撃対象を絞ることは米軍の指揮官たちは想定していなかった。軍需産業を支える小さな町工場が住宅地に多く位置していることが、米国にとって住宅地を攻撃する正当な理由と根拠だった。
1945年3月10日の大空襲後の東京
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爆撃と火災
1945年3月の東京都の人口はおよそ500万人。総面積の40%を家屋が占めるほど密集していた。しかも95%以上が木造家屋でそれが狭い道を隔てて隣り合ってるのだから、焼夷弾による空襲にはもってこいの標的だった。
1945年3月10日の深夜、0時を回ったあたりで数機のパスファインダー爆撃機が東京にナパーム弾と焼夷弾を落としていった。このパスファインダーは爆弾で東京の上に巨大なXの字となるように2本の線を描いた。この線が遠くからも見える火のシグナルとなり、そこへめがけて次々と他の爆撃機が飛来してきたのだ。
B29は3列を組み、15メートルごとに焼夷弾とナパーム弾を投下していった。これは最大限の被害を与えるためだった。町は瞬時に火の海に包まれ、その炎は数百メートルもの火柱となって天を突いた。熱風の勢いの強烈さは、これが米国の重い爆撃機をまるで羽毛のように上空へと投げ飛ばすほどだった。
日本の対空砲火は火事が迫り、射手の髪の毛や服が焼け焦げはじめても撃つのを止めなかった。時折、命中した爆撃機が夜空から地面に落下し、自分が積載の爆弾にハイオクガソリンの閃光を浴びせることもあった。夥しい数の木造家屋が方々でやみくもに燃えているために火の暴風が起き、それが数百メートルも上空にむかって吹き上がった。
こんな状況の中では住民が手ずから掘った防空壕はそのまま住民の墓場となった。火の力はあまりに強く、助けを求めて水場にたどり着いた人たちは文字通り生きたまま煮えた。炎の温度は摂氏1000度に達した。都心は火の海で消え、人体の焦げる匂いは遠く、上空を飛ぶ米軍機のコックピットに座るパイロットでさえ感じたという。ところが米国防総省は東京への絨毯大爆撃に満足感を覚えるだけにはとどまらず、さらに先を進み、広島と長崎に原子爆弾を投下したのだ。
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