ウクライナでの露特別軍事作戦

【人物】ロシアとウクライナのハーフは何を思う?ドンバスに行く理由と前線近くの市民の暮らし

ロシア人を父に、ウクライナ人を母に持つエフゲーニー・チェルヌィフさん(62歳)は、防犯システム・電気関係の技術者として働くかたわら、この半年間頻繁にドンバスに足を運び、市民を助けるボランティア活動を行なっている。日本では、ウクライナ危機はロシア人とウクライナ人の対立という風に単純化して語られることが多いが、両国に同じだけルーツをもち、ロシアでもウクライナでも長期間暮らした人は、どんな気持ちで今の状況を見ているのか?チェルヌィフさんの半生を追うとともに、彼が見た前線近くの市民生活について話してもらった。
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チェルヌィフさんは、ロシアのクルガン州で生まれ、アルタイ地方を経て、ウクライナ中部のクロピヴニツキーに引っ越した。小学5年生までそこで過ごし、ウクライナ語で教育を受けた。父は炭鉱で働いていたので、ブレジネフ政権下でマンションの部屋をあてがわれ、一家はドネツク州クラスノアルメイスクに引っ越した。当時は労働者のために住居が多数建設されていた。高校を卒業してからは、ウクライナ南部のニコラエフ(ミコライウ)で、造船の仕事に就いた。その後はウクライナで2年間兵役についた。モルドヴァ人女性と結婚した縁で、モルドヴァにも長く住んだ。
チェルヌィフさんは「素晴らしい造船所でした。当時、そんな立派な工場は、ニコラエフと、日本の横浜にしかないと言われていましたよ。横浜というのは、ものの例えで、造船所の規模の偉大さを示すために、日本というエキゾチックな場所を引き合いに出していたのです」と振り返る。ソ連の様々な都市で暮らしてきたチェルヌィフさんにとっては、ロシア語もウクライナ語も母語だ。チェルヌィフさんは、血筋から言えばロシア人ともウクライナ人とも言えるが、ソ連崩壊後、ロシア国籍を選んだ。
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「ソ連の中のウクライナと、今のウクライナとは、大きく異なるものです。ウクライナの友人からは、お前はウクライナ人なのになぜ反ウクライナなのか?と言われます。私は反ウクライナと思ったことは一度もないし、ウクライナが発展すれば良いと思っています。でもそれは、今のような形でなく、違う形でです。ウクライナ人自らが、ロシアとはずっと隣人であり、隣人として生きていくということを再認識する必要があると思います。
2013年、キエフで(その後マイダン・大統領追放へと繋がる)市民運動が始まった時、私は何が起きているかわけがわかりませんでした。大統領へ反対する気持ちは理解できますが、それは選挙で意思表明できたはずです。私は当事者ではないので、ウクライナの親戚・友人との連絡を通して、どんな風に彼らの気持ちが変化していくかを外から見ているような感覚でした」
チェルヌィフさんの甥は、2015年にウクライナの国家親衛隊に入った。ドンバスに対抗する部隊である。マイダン以降の、急速な甥の心境の変化に対して、チェルヌィフさんは今でも、どうしてそんなことができるのか理解に苦しむと言う。「ウクライナは私の家でもあります。両親の墓はウクライナにありますが、墓参りさえもできません」
2014年から、チェルヌィフさんは必要なものをドンバスへ送る活動を続けてきた。2016年からは人道支援物資に特化し、食品や衛生用品を寄付してきた。特殊軍事作戦が始まった時、志願兵になることも一瞬考えたが、年齢のことや、万が一親戚を撃つことになるかもしれないと考え、思い直した。
教会に人道支援物資を運び込むチェルヌィフさん(左)
軍事作戦が進むにつれて、現地で何かしたいという気持ちが高まったが、60歳を超えているという理由でどこのボランティア団体からも参加を断られた。あきらめかけていた時、息子の紹介でシベリアに拠点を置く「人道ボランティアコルプス」のメンバーになることができた。チェルヌィフさんは昨年9月から、ほとんどの時間をドンバスで過ごしている。現地では人道支援物資の整理や配布、炊き出しや清掃作業など、あらゆる仕事を行なっている。
多くの地方を支援して回ったチェルヌィフさん。例えばリシチャンスクには何度も足を運んだ。昨年7月の段階で、ウクライナがルガンスク人民共和国内で最後の拠点としていた場所だ。現在は、この町からおよそ10キロほどのところに前線があり、今でも砲撃が続いているという。
「初めてリシチャンスクを訪れたのは9月のことでした。町の外観はそれほど破壊されてはいませんでしたが、電気もガスも水道もなく、ただ放置されていました。リシチャンスク郊外の一戸建てが立ち並んでいるところは、普通ならリンゴの木があったり、家庭菜園で何かを育てているものですが、砲撃が激しくて夏には何も育てられず、住民は家に隠れていました。残っているのは老人ばかりです。自分の子どもが親を置いて行ったことについて批判する人もいれば、家族について話したがらない人もいました。子どもと言っても成人しているので、その人たちも、自分の子ども達を救うために避難しないといけない。結局誰を守るかという問題で、答えがないと思いました」
チェルヌィフさんたち一行は、助けを求める地元住民と知り合った。その人たちがまとめた困窮家庭のリストをたどっていくと、予想を超えるレベルで困っている家ばかりだった。
「例えばある家のお母さんは精神に障害があり、彼女の介護をする息子はほぼ盲目で、しかも目がひとつしかありませんでした。ある2階建ての寮の一室にいたおばあさんは寝たきりで、建物には水も電気も通っていません。水のペットボトルが置いてあったので、誰かが助けてくれているのですか?と聞いたら、100ルーブル(180円相当)を払って近所の男性に持ってきてもらうのだと…。もちろん、どうにしかして稼がなくてはいけないのはわかりますが、こんな状態の人からお金を取るのかと、本当にショックでした。
ある破壊された集合住宅では、外観は一応残っていました。砲撃で亡くなったのでしょう、誰かが中庭に埋葬されていました。下水道が機能していないので、柵で囲まれた住宅の中庭にトイレと、炊き出しをするための野外キッチンと、お墓が隣り合っているんです。それらが一緒になっている光景は言葉にできないものでした。意外だったのは、客観的に見て非常に悪い状況にも関わらず、住民が「心配しないで、大丈夫よ」と話すことでした。そうやって自分を勇気づけているのかもしれないし、それとも最悪の状況はもう乗り越えた、と思っているのかもしれません」
衣服の配布
ルベジノエ(ルビージュネ)では、雪や風の中でも使える作業服が必要だった。ボランティア団体では、衣服の配布も行なっている。女性、子ども服はたくさんあるが、男性用は足りていない。作業服となると尚更だ。ちょうどクリスマスシーズンだったため、マローズ爺さん(ロシア版サンタクロース)が来て、学校や幼稚園を回っていた。そこで、企業から寄付された温かい靴と冬の作業服を、マローズ爺さんが贈呈することにした。
「作業服を贈られたのは、ガスや電線などインフラの復旧に関わる人たちです。私はそこに立ち会えなかったのですが、中年の作業員の男性たちは、涙を浮かべていたそうです。イベントでも、子どもより大人の方が喜んでいたくらいです。人は、どんな状況にあっても喜びという感情、前向きになれる気持ちが必要なのだと確信しました」
マローズ爺さんが破壊された町を訪れる
チェルヌィフさんは、ドンバスの町をめぐる中で、人さえいれば、町は復活すると感じた。
「他に印象に残っている町としてはセヴェロドネツクです。とても小さい町です。徹底的に破壊されていて、町の様子はマリウポリの小規模版といったところです。ある日、とても寒くて、良い天気でした。夕方に太陽がどんどん沈み、真っ黒に焼け焦げた9階建ての建物に消えていきました。その光景は忘れることができません。問題は仕事ですよね。仕事さえあれば人は戻り、町は復興していくでしょう。食料や服は大事ですが、それ自体が町を蘇らせてくれるわけではありません。私は、人々が生き残る手伝いをする、という気持ちでボランティアに参加しています。もしかしたら向こうは私の助けなどいらないと思っているかもしれませんが、政治的信条に関係なくこの一番辛い時を乗り切ること、とにかく生き残ることが最も大事です」
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