「日本に辿りくことができた最初のロシアの調査隊は、カムチャツカ調査隊(1738〜1742)です。調査隊を率いたのは、ロシア帝国軍の艦隊に所属していたデンマーク人のマルティン・シュパンベルクと英国人のウィリアム・ウォルトンでした。その調査では、政府との交渉の道を模索していたわけではありませんでした。そのような対話を行う権限は与えられていなかったのです。彼らに与えられた課題は、純粋な地理調査と海洋調査だけでした。
シュパンベルクの船は仙台の辺境に寄港し、ウォルトンの船は本州に到着しました。船員たちは、岸に上陸し、地元の人々とジェスチャーを交えて会話しました。通訳はいませんでした。ロシアで日本語の指導が行われるようになったのは1736年のことですからね。しかし、見慣れぬ『客人』がやってきたという噂は広まり、仙台の地元政府は船員から日本人にもたらされた品を没収しました。そして、日本にあったオランダの東インド会社によって、1枚のコインがモスコヴィヤのものであると特定されました」
「18世紀半ば、日本との関係を構築するというイニシアチヴは、中央政府からイルクーツクの知事、シベリアの商人や実業家たちに委ねられました。1754年に、日本語学校がペテルブルクからイルクーツクに移されたのも偶然ではありません。日本の役人たちと初めて正式な交渉を行ったのは、1778年から1779年に調査隊を率いた人物たちで、イルクーツクの日本語学校を卒業したイワン・アンチーピンとイルクーツクの貴族、ドミトリー・シャバリンでした。彼らは北海道沖に到着し、松前藩士らと交渉を行い、定期的な交易の開始を提案しました。この提案に即答できなかった藩士らは、交渉を1779年に延期するよう求めましたが、そのときロシア人はこれを拒否しました。
このときの交渉については、日本の資料でも証明されています。これは日本語で記された最古の資料で、現在はロシア国立古文書館に保管されています。それは役人の名前と地位が書かれた名刺と松前藩士への贈り物受理の証書でした」
「そのきっかけとなったのは大黒屋光太夫の一件でした。ロシアで遭難した日本船の船長の帰国を、日本との交易関係確立のチャンスと見たのです。
1792年9月、アダム・ラクスマン率いる使節団が、オホーツク港から『聖エカテリーナ』号で日本に向かいました。日本に到着したラクスマンは、イルクーツク総督からの親書を日本の江戸幕府に手渡しました。またラクスマンは、船上に日本の漂流民が乗っており、帰国を望んでいるが、江戸幕府の代表としか話をしないと言っていると伝えました。これを受けて、地元の役人らは、それには時間がかかると説明しました。
調査隊は1年にわたって北海道に滞在しましたが、結果的にラクスマンは通商の禁止に関する『正式な警告』を受け取ることになります。しかし、交渉の継続を目的に、ロシア船の長崎への寄港に関する許可証が出されたのです」
「ラクスマンの来航は、日本にロシアへの関心を呼び起こすきっかけとなりました。しかも、大黒屋光太夫がこの国について色々と興味深い話をしたというのもあったでしょう。
一方、関心とともに、日本の北方の領土に関する懸念も湧き起こりました。というのも、日本人はすでにクリル諸島がロシアの一部になっていることを知っていたからです。幕府は、当時まだ、南クリル諸島と北海道を日本の領土だとは見なしていませんでした。結局、アイヌ民族の東の土地(北海道東部と南クリル諸島)を幕府の直接管轄下に置くとの決定が下されました。
1798年、そこに調査隊が送られ、この土地の整備が行われるようになり、要塞が建てられ、地元のアイヌ人たちを自分たちの方に引き入れました。ロシアとの交易関係の確立に関しては、支持者もいましたが、反対者もいました。ラクスマンが日本を訪れた後、数年にわたり、この問題に関する話し合いは続けられ、またロシアからの長崎への使節団が来ることになります」
「1804年9月、この調査団が長崎に入りました。『ナジェージダ』号は半年ほど長崎港に停泊し、アレクサンドル1世からの親書に対する幕府からの回答を待っていました。当時ロシアは日本との通商に関心を持っていました。カムチャツカ、オホーツクなどの極東の領土における食糧を保障する必要があったのです。レザノフ自らも日本との交易に関心を持っていました。というのも、アラスカ、アリューシャン列島などの露米会社が置かれた地区で食糧を保障しなければならなかったのです。しかし1805年4月、日本側は断固たる形で、通商関係の確立を拒否しました。レザノフはこれに立腹し、力づくで、意志を貫こうとします。彼は、サハリンとイトゥルプ(択捉)に駐留していた日本人に罰を与えるため、フヴォストフとダヴィドフという部下を「ユノナ」号と「アヴォシ」号に乗せ、派遣しました。1806年と1807年にフヴォストフとダヴィドフは2度にわたって日本人を襲撃し、何人かを捕虜にし、武器庫を燃やし、弾薬を奪いました。
このことを、ロシア政府は知っていたのでしょうか?オホーツクからの郵便物がペテルブルクに届くまでには数ヶ月かかり、その返信が届くのにも同じだけの時間がかかりました。しかも当時はナポレオン戦争の最中。アレクサンドル1世は、ヨーロッパにおける軍事情勢のことで頭がいっぱいでした。
1807年3月にレザノフが亡くなり、8月にはフヴォストフとダヴィドフに対する審理が始まりました。2人の行動は犯罪と見なされ、軍事裁判にかけられることになりました。しかし、最終的に2人は、開戦したばかりのロシア・スウェーデン戦争の前線に送られることになりました」
「クナシル(国後)に上陸したゴロヴニンと6人の同行者はトマリ(泊)湾で捕縛され、1811年から1813年にかけて捕虜となりました。最初は松前の牢獄に入れられていましたが、その後、屋敷に移されました。ゴロヴニンはフヴォストフとダヴィドフの事件に関して、それが誰の命で行われたのかについて、絶えず尋問を受けました。しかし彼は何も知りませんでした。そしてあるとき彼らは脱獄を決意するのですが、捕まえられ、牢獄に入れられてしまいます。
地元の郷土研究家らがその牢獄があったと思われる場所を見つけたとき、わたしも実際そこにいました」
「ゴロヴニンと同行者らは、軍艦『ディアナ』号の乗組員の一部だったことから、そこに副艦長のピョートル・リコルドがいたのです。リコルドは、日本の商人、高田屋嘉兵衞の乗る船を拿捕し、共にゴロヴニン解放のための計画を練りました。リコルドはイルクーツク民生長官から、フヴォストフとダヴィドフの行動は自発的なものだったいうことが書かれた親書を受け取ります。そこには、レザノフはもう亡くなり、フヴォストフとダヴィドフは自らの行いに対する罰を受けたと記されていました。この回答に日本人は納得し、ゴロヴニンは解放されました。
1816年、ペテルブルクで、『日本幽囚記 ゴロヴニン艦長の手記』が出版されましたが、これは19世紀半ばまでの日本の様子が描かれた素晴らしい書物です」
「1853年7月に米海軍の軍人マシュー・ペリー率いる艦隊が日本の沖に現れました。しかしほぼ同じ時期に、ロシアのエヴフィーミー・プチャーチン提督も日本を訪れました。ペリーは江戸近くの浦賀に来航し、プチャーチンは伝統的に欧州諸国との接触の場となっていた長崎を訪れました。ペリーは軍艦に据えられた大砲をわざと日本側に向けましたが、これは、日本が交渉を拒絶した場合は武力を行使するという脅しだと捉えられました。一方、ロシア船のすべての装備は意図的に封印されていました。
米国が最初の条約が結んだのは1854年、そしてプチャーチンが条約を締結したのは1855年2月でした。条約締結までには長く、困難な交渉が行われましたが、プチャーチンは日本政府から、西側の大国に与えるすべての特恵条件を、ロシア帝国にも同じように与えるとの約束を取り付けるのに成功します。しかも、資料を見る限り、これはロシア側から要求したものではなかったことが分かっています」