【人物】「モスクワの日本人女性たち」片山安子、岡田嘉子の回想録の作者へのインタビュー

ときに人の運命は、その時間も場所も、互いにまったく関係がないように見えて、実は驚くべき形でつながっていることがある。ソ日協会婦人委員会書記を務め、現在は年金生活を送るエリザヴェータ・ジワニードワさんが、それぞれの経緯でモスクワに身を置くこととなった2人の日本人女性―日本の社会主義者、片山潜の娘、片山安子と1930年代に活躍した日本の映画界、演劇界のスター、岡田嘉子の関係、そして自身と2人との友情について、回想録を執筆した。仮題「モスクワの日本人女性たち」は現在、出版に向けた準備が進められている。作品の出版を前に、執筆者のエリザヴェータさんが「スプートニク」の取材に応じてくれた。
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スプートニク:この本を執筆しようと思われたきっかけはなんですか?
ジワニードワさん:今生きている人の中で、少なくともロシアには、わたしほど片山安子さんと岡田嘉子さんについて知っている人はいないと思ったのです。わたしはこの2人の女性と長年にわたり、とても親しい関係でした。2人がこの国にきた理由は異なりますが、2人とも半世紀以上にわたりこの国で暮らしました。片山安子さんは57年、岡田嘉子さんは54年、ソ連で生活しました。片山安子さんと岡田嘉子さんとの間に友情が芽生えたのも驚くことではありません。
とはいえ、わたし自身、性格も職業もまったく違う2人を結びつけたのはなんだったのだろうとよく思います。片山安子さん、ソ連ではやすと呼ばれていたのですが、彼女は社会活動家で政治に近い人、一方の岡田嘉子さんは芸術の世界の人でした。しかしわたしは答えを見つけた気がします。
そう、2人を結びつけたのは郷愁です。一緒に思い出したり、語り合いたいことがあったのでしょう。しかも母国語で。彼女たちと一緒に、わたしもソ連を訪れた日本人としょっちゅう会っていました。そしてそのたびに彼女たちが、自分と同じ国の人たちと会うのをいかに感激しているのかを目にしました。空港に見送るときには涙を見せることもありました・・・
岡田嘉子
スプートニク:片山安子がモスクワにやってきた経緯について教えてください。そして彼女はなぜ祖国に戻らなかったのですか?
ジワニードワさん:安子は1931年、当時すでにかなり体調が悪かった父親の片山潜にモスクワに呼ばれました。片山潜は1921年からモスクワで働き、コミンテルンで高位の役職についていました。片山潜はモスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りにある「リュクス」ホテルの小さなアパートに住んでいたのですが、この建物には、1919年から1937年にかけて、コミンテルンの多くの職員が住んでいました。しかし、片山潜が娘と一緒にここで暮らすことができたのはわずか2年でした。
1933年に片山潜は亡くなり、赤の広場のクレムリンの壁に埋葬されました。父親が亡くなった後、安子はほとんどロシア語も分からない状態で、1人、異国に残されることとなりました。そのとき、彼女は35歳でした。2人がアメリカに住んでいたとき、彼女は偉大なバレリーナのアンナ・パヴロワにバレエのレッスンを受けていたそうですが、バレリーナとしてのキャリアを積むことはできませんでした。父親の死後、レーニンの未亡人、ナジェジダ・クルプスカヤが彼女の後見人になりました。彼女は安子にモスクワの時計工場で働くよう勧めました。ホテル「リュクス」から工場まではトランバイ(路面電車)で数駅だったのです。安子はこの頃のことを温かい気持ちで思い出していましたね。
その後、彼女は日本語教師になり、教科書を執筆し、1959年に「ソ日協会」ができると、理事長代理となり、その後、副会長となりました。なぜ日本に帰らなかったのか尋ねたことがありますが、安子はわたしに、「父を捨てることはできなかった。(わたしがいなかったら)誰が父を訪ねてくれるの?」と言っていました。父親が亡くなった後、彼女はしょっちゅう、お墓に足を運んでいました。2人はもっとも親しい関係だったのです。母親は幼い頃に亡くしているということもあるのでしょう。それに彼女は、父親とともにいろいろな国に住んだけれど、ソ連ほど温かくわたしたちを受け入れてくれた国は他にないと話していましたね。
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片山安子と父親の片山潜

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片山安子の教科書

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片山潜生誕150年記念講演会・交流会

スプートニク:片山安子さんとはどこで知り合ったのですか?
ジワニードワさん:1973年にわたしは軽工業省の代表団の1員として日本に行くことになりました。そのとき、わたしは「芸術絵画」という企業で主任画家として働いていたのです。日本にはとても魅力を感じていましたが、わたしは日本に何を着ていけばいいのか、―寒いのか暑いのか―、そしてどんなエチケットがあるのかなど知りませんでした。それで「ソ日協会」に相談に行ったのです。そして、そこで片山やす子さんと知り合いました。片山さんはわたしと別れるときに、日本から戻ってきたら、旅行の印象を協会で話してくださいねと頼みました。
それで、日本から戻ったあと、わたしは旅行の話をするため、また協会に行きました。それからしばらくして、協会の秘書にならないかと誘われたのです。当時、「ソ日協会」婦人委員会の会長をしていたのは、有名な日本学者のガリーナ・ポドパロワ教授で、片山安子はその右腕でした。しかし、彼らには日々のルーティーンワークをする時間がなかったようです。それでまだ若くて、エネルギーに溢れていたわたしは、自分にとって新たな分野の仕事に喜んで取り組むことにしました。
それ以来、片山安子さんとはだいたい一緒にいましたね。しょっちゅうわたしを家に招き、ちらし寿司をご馳走してくれました。そして夫のチブルスキーさんを紹介してくれました。2人でよくボリショイ劇場にも行ったものです。それはわたしたちの共通の趣味でした。そして彼女を通じて、岡田嘉子さんと知り合いました。片山さんは岡田さんをよく自宅や「ソ日協会」の友好会館に招いていたのです。
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ポドパロヴァ・ガリーナ、片山安子、ジワニードワ・エリサヴェータ

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ジワニードワ・エリサヴェータ、日本人と一緒にクレムリンの前で

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ジワニードワ・エリサヴェータ

スプートニク:岡田嘉子さんの運命はまるで映画のシナリオのようですよね。すでに女優として成功していた岡田さんは、1938年1月に、恋人だった演出家でロシア文学の通訳者の杉本良吉と一緒にサハリンの国境を超えて、日本からソ連に亡命しました。彼らの目的は有名な演劇の改革者フセヴォロド・メイエルホリドの下で学ぶことでした。
当時、日本の演劇は新たな思想、新たな形式を模索していました。そしてモスクワの革命劇場で、メイエルホリドと共に、2人の日本の演劇活動家、佐野碩と土方久敬(土方与志)が活動していました。この亡命は日本に大きな衝撃を与えました。そして本人たち、そしてその崇拝者たちにとって運命的なものとなりました。岡田と杉本はスパイ容疑をかけられ、メイエルホリドの下で学びたいという2人の思いは、日本のスパイであるという罪状のための証拠として利用されました。メイエルホリドと杉本は死刑判決を受け、岡田嘉子は10年の禁固刑を言い渡されました。
杉本良吉
ジワニードワさん:1948年に彼女の新たな生活が始まりました。モスクワ放送のアナウンサーとしての仕事を紹介されたのです。当時の日本語のレーヴィン課長の表現を借りれば、モスクワ放送の看板娘になったのです。まもなくして、ハバロフスクから、元軍事捕虜で、清田彰と元俳優だった滝口新太郎がモスクワに派遣されてきました。岡田さんは、清田彰とは良い友人になりましたが、滝口新太郎とまもなく結婚し、ついに人生のすべてがうまく行くかのように思えました。
しかし、彼女は演劇の夢を忘れることはできませんでした。そして1953年、岡田嘉子さんは舞台芸術大学の演出学部に入学します。1956年に大学を外部生として卒業し、マヤコフスキー劇場で、戯曲家、森本薫の「女の一生」を卒業制作として上演しました。このように、かなり時間はかかったものの、彼女は自身と杉本の秘めたる夢を叶えたのです」。
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岡田嘉子と滝口新太郎

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滝口新太郎

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伝説的な女優でアナウンサーの岡田嘉子さん、ラジオ「モスクワ放送」のスタジオで

スプートニク:1972年、東京の美濃部亮吉知事が、ソ連政府に岡田嘉子さんの帰国を許可してほしいと嘆願しました。それで35年ぶりに日本に帰国を果たすことになりました。彼女の帰国は大々的に取り上げられました。彼女は本を執筆し、インタビューに答え、また映画に出演するようになりました。彼女は「皇帝のいない8月」と「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」に出演し、日本で大成功を収めました。しかしそれでも彼女は日本に残ろうとはしませんでした。なぜだと思いますか?
ジワニーロワさん:心のどこかで、杉本良吉がまだ生きているという希望の灯が消えていなかったのではないでしょうか。彼女が杉本良吉の死について知ったのは、ペレストロイカ時代になってからです。メイエルホリドの尋問調書が含まれた「事件537番」が出版されたときでした。もしかすると、岡田嘉子さんが釈放されたときにサインした「秘密保持の誓約書」があったからかもしれません。ですが、この書類がなくても、彼女は当時のことを誰にも話すつもりはなかったと思います。おそらくこの話は彼女にとってとても辛いものだったのでしょう。
片山安子さんから、岡田さんには過去のことを色々と詮索しないようにと言われていましたが、わたしは岡田さんにこんなことを言ったことがあります。「あなたはとても強い女性です。これほどの苦労を耐えてきたのですから」と。すると彼女はその仄めかしに気づいたようでこう答えました。「あれはわたしの人生でもっとも恐ろしい時期でしたけれど、わたしは何ひとつ後悔していません」。
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