「日本・ウラジオストク協会」は2007年に設立され、現在では日本全国の80人以上が参加している。会合は毎月1回開かれているが、全員が同じ場所に集まるのは簡単ではない。だが、あるレストランが助け舟を出してくれた。レストラン内にプロジェクターとスクリーンを設置したことで、オンラインではあるが遠隔地の希望者も参加できるようになっている。
スプートニク通信は「日本・ウラジオストク協会」事務局長の浅井利春さんに、協会ができた経緯について質問した。浅井さんは過去にはビジネスマンとして活躍し、ウラジオストク日本センターの所長を務めた経験もある。
浅井さん:私がウラジオストクで日本センターの所長だったとき、当時一緒にウラジオストクにいた総領事がウラジオストクの応援団みたいなものを作らないかと提案しました。それで日本にいた私はまたウラジオストクに行き、でき上がったんです。
スプートニク: もともとロシア語の勉強をされていたのですね。
浅井さん:そうです。私は神戸の外語大学でロシア語を勉強しました。だけど、ラグビーもやっていたから、あまり真面目ではありませんでした。
スプートニク: ユル・ブリンナーについて色々なお話を伺いましたが、なぜこのテーマを選んだのでしょうか?
樫本さん: やはりブリンナーの家族がウラジオストクの街を作った人々の一つということです。そのうちにロシア革命も起こるじゃないですか。日本にとってもウラジオストクは、例えばシベリア出兵で日本軍が駐留したり、非常に関係が深いですよね。だから、すごく興味を持ったんです。あと、ブリンナーのお爺さんがなんと日本に10年も住んでいたというのが、すごく驚きました。それでもっと調べてみたいなと思いました。
スプートニク:なぜロシア語やロシアの文化、歴史に興味を持ったのですか?
樫本さん: 私は元々神戸市外国語大学でロシア語を勉強していました。私の先生はソ連時代に初めてロシアに留学した日本人女性で、渡辺侑子さんという方でした。先生はアンナ・アフマートヴァやマリーナ・ツヴェターエワについての本を書いていました。私はそれを読んですごく面白いと思って、ツヴェターエワを勉強して卒業論文を書きたいと思ったのです。それでロシアのサンクトペテルブルクで1年間留学しました。そこから亡命したロシア人も含めて、ロシア革命の前後に活躍した作家や文化人に興味が出たんです。今はソビエト時代の作家もとても興味があるんですけれども、最初のきっかけはツヴェターエワの作品などを、自分でロシア語で読みたいなと思ったことです。
スプートニク:レストランをオープンしたのはいつですか?
前田さん:4年前です。
スプートニク:なぜ東京でロシア料理を開いたのですか?
前田さん:私はロシアで24年間働いていました。モスクワで12年、極東のウラジオストクとハバロフスクで合わせて12年です。色々なロシア人に出会いました。今、テレビや新聞はロシアのイメージを歪曲しています。ロシアの政権を批判することしかしない。ですが、50年以上一緒に働いてきた、私が知っている本当のロシアの人々は違うのです。だから、私はロシア人がどういったものであるか、一般の日本人に説明したいのです。私のレストランで彼らと落ち着いて話してみたい、テレビなしでね。