上月豊久 (こうづき とよひさ)駐ロシア日本大使と日本外務省職員たちが、日本を代表し、5年前にロシアの救助隊が行った機動的で全面的支援、そして彼らが示した「温かさと、思いやり」に対し、ロシアに感謝の意を表した。
上月大使は、次のように述べられたー
「ロシア政府の動きは諸外国の中でも特に素早いものでした。ロシア非常事態省の救援隊は現地にいち早く到着し、直ちに行方不明者の捜索等にとりかかっていただきました。同様に重要だったのは精神的な支えでした。多くの一般のロシア人が地震の犠牲者を追悼するために大使館に献花され、温かいお手紙をお持ちになり、義援金集めに参加しました。
この空前の震災は日本にとって厳しい試練でした。でも同時に、日露関係の連帯を確認する機会にもなりました。この様に、私たちは苦しい時の友は真の友ということわざの意味をかみしめたのでした。皆さんからの支援は深く私たち日本人の心に刻み込まれています。改めて御礼申し上げます。」
また当時ロシア非常事態省の救助隊に通訳として同行した日本外務省ロシア課の城野啓介(じょうの けいすけ)事務官が、被災地でのロシアの救助隊の活動について語った。城野事務官は、自分たちの命を危険にさらしながら勇気を発揮したロシアの救助隊に感謝の意を表し、次のように語られたー
「宮城県石巻市で、ロシアの救援チームは生存者の発見に全力を注いでいました。残念ながら発見される方は既に遺体でしたが、それでも生存者を見つけ出すという彼らの士気には、目を見張るものがありました。その日、あらかた捜索活動を終えたロシア救援チームは、大通りで、5mもある塔のような瓦礫の山の上に、乗用車が打ち上げられている現場に直面しました。車内には母親と娘の遺体が悲惨な様相で取り残されていました。現地自衛隊・警察によれば、父親から遺体発見の通報があったが、重機もなく、重大な二次災害に繋がる可能性があるため手が付けられない由でした。そこで、あるロシア人隊員が「自分が登る」と言い出しました。彼は瓦礫の塔を登り、頂上の乗用車に達すると、窓を素手で割り、先ずは母親の遺体を抱き上げます。危険な高所での作業で、かつ水死された重く運びにくい遺体であることを考えれば、普通は投げ下ろしたい欲求に駆けられるものだと思います。しかし、彼は優しく遺体を抱え、塔を慎重に下り、遺体をそっと地面横たえました。そして、更にもうー度塔を上がり、今度は娘の遺体を同様に優しく抱きかかえて下ろしました。父親は、危険を顧みず素手で遺体を搬送してくれたロシア人隊員に、手を合わせ心から感謝していました。」
城野事務官は最後に、日露関係は2011年3月11日を契機に大きく前進したと指摘し、ロシアと日本は未曾有の大震災という不幸を共に手を取り合い、両国関係を発展させる肯定的な力に変えることができたと述べられ、改めて当時と、そしてその後も変わらぬ皆様の温かい友情に感謝していますと語られた。
アントン シチコフ