東京・青山葬儀場で今年6月21日亡くなった鳩山邦夫日ロ協会会長を偲ぶ会が自民党と鳩山家の合同実行委員会主催で7月12日、行われました。以下、その時の事、思い出も含め、鳩山会長のことを書きます。なぜならば、傍にいて働いた者の務と考えるからです。
私がまだ目が見えている頃、ロシアから代表団が来ました。都内のホテルの会議場で会いました。私が通訳していました。会議は終わり雑談に入る時でした。すると会長が突然「ミヤ・ザブート・クニオ・ハトヤマ」(私の名前は鳩山邦夫です)と言われました。私は直分かりました。その発音の正確さでした。日本人が会話集などでカタカナで練習したのとは違いました。ロシア側代表団は大喜びでした。会長は続けて「大学に入り第二外国語にロシア語を選択しました、そこには現在H大学で教えているS君も一緒でした。彼は良く出来ましたが・・・。」。そうです、鳩山家ではロシアあるいはロシア語は特別の意味を持っていたのです。
あと一つ。奥様のエミリーさんの事です。
その後、目はますます悪く成り教えていた大学も辞めました。
それから数年後、毎年恒例の鳩山会館での桜の会に久しぶりに参加しました。目が見えないので白杖をもって立っていると手が伸びてきて私をあるテーブルに導きました。そこではエミリーさんが参加者に食べ物をお皿に盛って渡しているのでした。その作業のあいまに「佐藤さん、あなたは私に対する義務を果たしていません」と言われ、私は「え・・!」、
「モスクワで頼みました。日本に帰ったらロシア語を勉強したいので、教えて下さいと」。正直私は忘れていました。その後何回か桜の会がありましたが所用があり参加できませんでした。
そこでこの偲ぶ会に一言でもと思いましたが、手を握るだけでやはりダメでした。
本当に惜しい人、そしてロシアの事を分かっている人を亡くしました。日ロ関係において大きな損失です。