南京虐殺は、日中関係において特別デリケートな問題である。日本政府は、南京虐殺に関する資料を「記憶遺産」のリストに含めないよう、ユネスコに執拗に求めた。なぜならば、日本側の考えでは、この問題が政治利用されているからである。日本側のそうした厳しい反応は、日本政府にとって、中国本土での日本の戦争及び軍国主義に関係した歴史的過去が、どれほど痛みを伴う問題であるのかを、今一度証明するものとなっている。
ロシア科学アカデミー極東研究所日本調査センターの責任者、ワレーリイ・キスタノフ氏は、日本は、他国に対する自分達の侵略について思い起こさせるどのようなものにも、文字通り銃剣を持って受け入れていると形容した。これは、過去における日本の侵略について若干見直したいとする現政権の路線と関係したものだ。今回のユネスコ分担金支払い保留という形での不満感の表明も、この路線が現実化しつつあることを裏付けている。
キスタノフ日本調査センター長は、次のように述べている-
このように述べたキスタノフ氏は「しかし、つい最近、日本人が、登録リストに所謂『白樺日記』を含めるよう提案したことを思えば、日本の反応は、全く論理的ではないと思われる」と指摘し、次のように続けた-
「これは、ソ連で捕虜になった旧日本軍人らが書いた日記で、彼らは、白樺の皮にそれを記したため『白樺日記』と呼ばれている。日記は保存されており、実際、捕虜となった毎日の苦しさを証拠立てるものだ。しかしこれをユネスコの『記憶遺産』のリストに登録したいとの立場には、歴史に対する日本政府のアプローチのダブルスタンダードが示されている。一方で日本は、他の国々が、彼らに大陸における中国人あるいはコリア人に対する日本軍国主義の犯罪を思い起こさせようとするのを欲しないのに、他方では、ソ連で捕虜になった旧日本軍人の記憶を永久に伝えたいと欲している。よく知られているように、旧日本軍人の多くは、実際亡くなられた。しかし彼らは、病気や辛い労働で亡くなられたのだ。銃殺されたり、あるいは何らかの辱めを受けて亡くなったのではない。日本軍人が、自分達の日記を書くチャンスがあったという事実自体、南京で大量に殺された中国人の場合とは、彼らは違った状態にあったことを物語っている。強制的に売春宿に送られた韓国の女性達とも違う。まして日本軍人は、後になぅて、船で無事日本に帰還した。そしてその際、彼らが持って行こうとしたものが奪われることはなかった。」
「私は、大阪と東京で数年働いた。その時、捕虜となった旧日本軍人の方と何回かお会いすることになった。その際、そうした方々から、彼らがロシアで捕虜になぅっていたことからくる何らかの敵意を、私は感じたことはなかった。それを示唆するような事もなかった。あべこべに私に対する、何らかの特別の注意や温かい思いを示してくださった。何かノスタルジックな感情に支配されていたのかもしれない。日本の軍人捕虜の方達が、多くのロシアの歌を故郷に持って行ったことを、思い出せば十分だろう。そうした歌は、今での日本でかなりよく知られている。日本の共産党が、ソ連から帰国した軍人捕虜のおかげで、1950年代に自分達の隊列を大きく拡大したことも、雄弁に物語っている。少し後に、日本とロシアの友好を目指すいくつかの団体ができたこともそうだ。そうした団体のメンバーのかなりの部分は、祖国に帰還した旧日本軍人だった。」
キスタノフ氏の意見によれば、日本がユネスコ分担金の支払いを一時停止しても、結局、南京虐殺についての思い出を中国人の記憶から抹殺することにはならない。肝心なことは、ああした悲劇を二度と繰り返さないよう、歴史の最も恐ろしいページとして、共に学ぶことである。
なお記事の中で述べられている見解は、必ずしも編集部の立場とは一致していません。