私は、あるニュースサイトで、搭乗者リストの中に友人の名前を見つけた。彼の名前はパーヴェル・オブホフ、ロシア国防省のテレビメディア「ズべズダー」の記者で、25歳だった。ここではいつものように、親しみをこめてパーシャと呼ぶことにしたい。そのニュースサイトが間違いであってほしいというわずかな期待もむなしく、「ズべズダー」は、パーシャが確かにツポレフ154に乗り、シリアに出張に向かっていたと報じた。
しかし墜落したからと言って亡くなったとは限らない。あの御巣鷹の日航機墜落事故でさえ、4人生存者がいた。パーシャは若くて体力があるので、海に浮いて助けを待っているかもしれない。なんといっても墜落場所はソチにものすごく近いし、ロシア領だ。救助隊も必死で捜索しているだろう。しかし、一日中、ニュースにかじりついて過ごす中、テレビでパーシャの白黒写真に黒いリボンがかけられ、人々が赤い花を供えているのを見た。「ズべズダー」は、パーシャを含む、ツポレフ154に搭乗していた3人の社員の功績をたたえる映像を流し始めた。当局は「生存者はいない模様」と話していた。しかし、それでも、ばかばかしい話かもしれないが、万が一ということがあるのではないかと思っていた。ロシアでは何が起こってもおかしくない。
パーシャとはモスクワ教育大学の大学院で同じ専攻だった。政治ジャーナリズム学科はわずか13名しかいなかったので、私たちは自然と仲良くなった。ロシア人というのは概して人見知りだ。普通は仲良くなるのにある程度の時間がかかるものだが、パーシャは非常に明るいキャラクターの持ち主で、他人に対してバリアをもたず、華があった。2014年、ロシアではウクライナ危機が最大の関心事だった。私たちは授業でよくそれについて討論した。ロシアチームとウクライナチームに分かれ、それぞれの国の言い分を主張し、議論する。その後あえて役を交代して、逆の立場に立ってみるのだ。私はパーシャと同じチームになった。そのとき、彼の頭の良さにびっくりしたことをよく覚えている。パーシャの方も、私の日本人的な考え方は新鮮だったようだ。それがきっかけで私たちはよく話すようになった。
ジャーナリズムを学んでいるからといって、全員がジャーナリストになれるわけではない。ロシアでも日本と同じように、マスメディアへの就職は狭き門である。クラスメートの間でも、夢を体現しているパーシャは皆の憧れだった。今回の事故を受け、パーシャが25歳だと聞いて、あらためて驚いた。もちろん彼の年齢は知っていたはずなのだが、パーシャの仕事や言動から考えれば、もっと年上でもおかしくないような気がしたのだ。パーシャは、エボラ出血熱が流行るギニアにも、シリアにも、北極にも、どこへでも行き、ほとんど休みがなかった。それだけの仕事を25歳でこなせる日本人を私は知らない。
私たちは今年の7月に修士課程を修了し、成績優秀者に授与される「赤いディプロム」をもらうことができた。パーシャがあれだけのハードスケジュールの中、修士論文を書き上げたことに私はびっくりした。パーシャはディプロム授与式に両親を呼び、嬉しそうに写真を撮っていた。それは本当につい昨日のことのようだ。
事故から一夜明けた今日26日、ロシアは喪に服している。これを書いているのはモスクワ時間の夕方だ。昼間には、パーシャのお別れ会の日程が決まったという知らせが飛び込んできた。結局、ここまで書いて、これは何のための文章なのか自分でもよくわからないし、もしかしたら読者の皆さんを困惑させてしまったかもしれない。しかし私はとにかく、友人であり、若くて将来有望なジャーナリストであるパーシャの人生のごく一部でも、誰かに知らせたかったのだと思う。
ツポレフ154の墜落事故は結局、乗員乗客92名が全員犠牲になるという大惨事となった。生存者の見込みどころか、犠牲者の遺体もなかなか見つけることができず、潮の流れが速くて捜索が難航していると聞く。事故原因について考え出すときりがなく、堂々巡りの思考が止められないが、今わかるのは、何も明らかになっていないということだけだ。