プーシキン美術館のマリーナ・ロシャーク館長は、モスクワに森村氏を招くことを決めた理由について、次のように語っている-
「それは、彼が完全に日本の芸術家であり、とても奥が深い、大変よく感じ取る能力を持ち、変化する芸術家でありながら、自分自身というものを保ち、全く完全で一貫した美術家だからだ。」
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— restot (@restot50) 27 января 2017 г.
森村氏は、ロシアの観客に対する挨拶の中で「プーシキン美術館で個展を開き、そこで自分の作品が世界の偉大な芸術家たちの作品と共に展示されることは、自分にとって大きな名誉だ」と述べている-
「日本の大阪から、やってきた美術家の森村泰昌です。このたび世界有数の美術館である、ここプーシキン美術館で個展を開催することになった。素晴らしい作品をコレクションしている、そのコレクションに混じって私の作品も展示され、とてもうれしく又光栄に思っている。ぜひ多くのロシアの皆さんに足を運んで頂き、お楽しみ頂きたい。ダブロー・パジャーラヴァチ(ようこそ私の個展へ)!」
モスクワでは今回、大阪の国立美術館や東京の原美術館、京都国立近代美術館が所蔵するものの他、個人所蔵のものも含め、森村氏の作品およそ80点が紹介されている。レオナルド・ダヴィンチやデューラー、ヴァン・ゴッホ、カラヴァッジオ、レンブラントなど、さまざまな国、時代、ジャンルの画家の肖像画の中に自分の顔を加えながら、森村氏は、まさにその人物になりきっている。その際彼は、オリジナル作品制作の歴史や画家の人生について注意深く研究し、状況を再現し、入念にメイクや然るべき衣装を選んでいる。彼は、これまでの創作活動の間に、すでに約300ものそうした様々な作品を制作した。彼の目的は、画家を制作に駆り立てたものを理解し、実際彼らがどんな人物であったかを知ることにあり、そうした目的を達するため、森村氏は、彼らがいた場所に自分を置いてみようと試みているのだ。
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— Horned_Owl (@Horned_OwlJA) 1 февраля 2017 г.
彼が、そうしたセルフポートレートを最初に制作したのは、1985年で、選んだのはゴッホだった。森村氏は、そうしたアートの形態を愛している。こうした表現手法に達するまでの過程について、森村氏は、次のように語っている-
スプートニク日本のリュドミラ・サーキャン記者は、森村さんにマイクを向け、ロシアの誰かに「なってみる」つもりはないかどうか、聞いてみた-
「ロシアでは小さな個展はこれまでにもあったが、今回のような大きな本格的なものは初めてで、大変うれしく思っている。私はこれまで、いろいろな作品を創っている。必ずしも自画像ばかりをテーマとしているわけではない。ただ私が、セルフポートレートをテーマにしている作家なので、今回の展覧会は、自画像の自画像というテーマで考えてみた。
私は、ロシア文学がすごく好きなので(トルストイやドストエフスキイなどに)大変興味がある。しかし顔が似た顔になったら、それでOKというわけではない。彼らの本を一所懸命読んだり、いろいろ研究しなければならないので、少し時間がかかるだろうが、自分は大きな興味を持っている。」
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— Once Upon a Time (@neverness33) 30 октября 2016 г.
森村氏の創作活動に対し、世界での受け止め方は様々だ。彼の作品を芸術だとみなす人もいれば、キッチュでフォトショップのようなものだと見る人もいる。これについて森村氏自身は、次のように考えているー
「人生においてはユーモアが重要な役割を演じている。軽いアイロニーが、私の作品を貫くようでありたい。もちろん、人々が私の作品の中に芸術を見てくれるようであってほしい。芸術、美術とは、社会生活の特別な分野だ。
例えば、殺人は文明社会にとって受け入れることのできないもので、それはタブーだ。しかし文学の中、例えば、ドストエフスキイの長編小説『罪と罰』の中では、若者が殺人を犯す。
美術の世界でも、それをすることはできないだろうか? まさにそこのところが、人生と美術の違いなのだ。もし美術に対し、人生の他の領域に対するように対応し始めるならば、美術は、自分の機能を果たすのを止めるだろう。その時、常に出てくる問いは次のようなものだ。美術の中で何でもできることに、果たして意味はあるのか?というものだ。美術にとって大変重要なのは、批判的なアプローチであり、社会を傍らから見ることのできる力である。もし我々が、美術の中に、自己批判の目を保ってゆくのなら、あらゆることができるだろう。少なくとも私は、いつもそうしている。」