すでに宮城のリスナーAさんは見学されたとのことだが、我々も、ロシアにおける君主制の打倒をもたらした100年前の出来事を振り返り、そこで日本がどんな役割を演じたかを考えてみたい。
一方当時、発展する工業と遅れた農業との間には、巨大な格差が生じており、大量の失業者や 労働者及び農民が感じる恐ろしいばかりの不公平感は、大規模な抗議運動の土壌を作り出していた。革命の機運は、すでに広がっていたが、ツァーリ(皇帝)の政府は、そうした事実を自分達への脅威とは捉えず、明らかに過小評価していた。そんな時に、皇帝となったのがニコライ2世(1894-1917)だった。彼が帝位に着くまで、ロシアは、巨大な官僚システムを持った絶対君主制国家だった。
日本艦隊によるポルト-アルトゥール(旅順)とチェムルポ(済物浦、仁川の旧称)でのロシア船への奇襲攻撃と、それに続く1904年1月の宣戦布告は、ロシア人には恥知らずな挑戦と受け止められ、国内では、異常なほどに愛国的感情が高まった。当時日本は、ロシア人の大部分にとって、取るに足らない、相手にならない弱小国だと受け止められており、日本との戦争は、勝利が運命づけられたものと考えられていた。しかし、バルチック艦隊の殲滅、そして旅順包囲作戦は、日本の艦隊が、広大な帝国に散在する巨大なロシア軍よりもっと優れたものである事を示した。
露日戦争での敗北は、ロシアにおける革命的高揚の唯一の、あるいは最も重要な理由ではなかった。とはいえ、ロシアの歴史学者でロシア科学アカデミーロシア史研究所主任研究員のキリル・ソロヴィヨフ氏は「この出来事の間の関係性を否定することはできない」とみなしている。
以下、ソロヴィヨフ主任研究員の意見を御紹介したい。
露日戦争と「ツシマ(対馬)」という言葉は、ロシア人水夫の男らしさとヒロイズムのシンボルとなったばかりでなく、苦い敗北の思い出として人々の心の中に残った。一方、何千人もの兵士や水兵が命を落とし、あるいは捕虜となった事は、帝政権力に対する失望感と批判を強める結果となった。国内は動揺しだし、モスクワやペテルブルグでは、組織的性格を持ったストライキが起きるようになった。最もラジカルな立場を取る政党は、君主制の廃止を求めていた。1905年のロシアの最初の革命は、より社会を強く震撼させた1917年の革命の前触れとなった。そしてこの革命は、何百年もの間ロシアに存在していたあらゆる統治システムの崩壊をもたらしたのであった。