ふたつ目の出来事は1956年10月、モスクワで行われた鳩山一郎首相とソ連のニコライ・ブルガニン首相の交渉で起こった。10月15日、双方は「二国間関係の早急な正常化のため、共同宣言に署名し」、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉を関係正常化後に継続することで公式合意した。署名の準備は全て整っていた。しかし、同じく交渉に参加していていた農林水産大臣の河野一郎が、事実上のソ連トップであったニキータ・フルシチョフとの面談を要望した。フルシチョフは、公式合意が得られた後としては驚くべきことに、これに同意し、10月16日、17日、18日の3回、河野との会談を行った。この後、日本への歯舞・色丹の引渡しに関する項目が、1956年10月25日に署名された共同宣言の本文に追加された。一方で、これを最後の譲歩とし、実際の引渡しは米国が琉球諸島などの日本領を返還した後に実施するとしたフルシチョフの要求は本文には入らなかった。代わりに、ソ連は、日本の国連加盟を支持すること、ソ連領内に残っている第二次世界大戦時の日本人抑留者を全員本国に送還すること、日本の漁師にとって好都合な体制を導入することなどを義務づけられた。共同宣言の本文がこのように大きく変質した理由については、歴史家の間でも一義的な解釈が得られていない。
その後、日本の現首相の祖父である岸信介首相がフルシチョフの算段をすべて葬り去った1960年1月19日がやってきた。この日、世論の強い抗議にもかかわらず、日本は米国と新たな「安全保障条約」を締結し、これにより、米国による日本全国での軍事基地の使用を許可したのである。1960年1月27日、ソ連政府は「当該の島を日本に引き渡すことで、外国軍が使用できる領土の拡大を促すことはできない」という理由で、日本への島の引渡し問題の検討を放棄すると発表した。ソ連にとってクリル諸島への米軍基地の展開は、たとえ仮定の話であっても、受け入れられるものではなかった。
フルシチョフはどうやら、日本に米国との同盟を放棄させ、この国を中立国に変貌させることは不可能だと悟っていたようだ。しかし、島を日本に引き渡した場合に、これが米国によって軍事基地化されることは、フルシチョフの計画には入っていなかった。