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プチャーチンが提督になったのは、日本と中国への使節を数回にわたって務めた後の1858年のことである。1854年、当時まだ副提督だったプチャーチンは日本の政府と交渉するため、ディアナ号で日本の下田港に入った。交渉は始まったものの、数日後には大地震で中断した。ディアナ号も深刻な被害を受け、その後、修理のために戸田湾へ移送する途中で沈没した。地元の住民はロシアの水兵を救助し、助けられたロシア人水兵は日本人を手伝って、倒壊した村の復興を助けた:下田では1000軒あった住宅のうち、被害を免れたのは約60軒のみだった。その下田で、初の日露友好通商条約が締結された。この条約は下田条約として知られ、これにより両国に国交が樹立された。その1年後、戸田村でロシア人と日本人が力を合わせた船が完成し、「ヘダ号」と名付けられた。それに乗ってプチャーチン一行はロシアへの帰路に就いたのである。
今年は、特注の軍服がこの港まつりのためにモスクワから届けられた。4年間プチャーチン役を演じている日本企業「サクラツアーズ」の社長、アナトリー・クラスノフ氏がスプートニクのインタビューで詳細を語った。
© 写真 : アナトリー・クラスノフ「港まつり」
「港まつり」
© 写真 : アナトリー・クラスノフ
「戸田のお祭りは今年でもう28回目です。いつから「プチャーチン・パレード」が行われるようになったのか正確には分かりませんが、お祭りそのものは私たちの大使館がソビエト時代から支援しています。「プチャーチンまつり」の発起人と主催者は日本人であり、なかでも作家で社会活動家の中尾千恵子さんが突出しています。私がこのお祭りに参加するのは4回目ですが、よく調べてみると、プチャーチンが身につけている「衣装」が、実は米国の海軍将校、ペリー提督の軍服であることが分かりました。そのとき、「正確な」衣装を注文したいという願望が生まれました。衣装は、最近の映画「アンナ・カレーニナ」や、ボリショイ劇場で封切り上演が中止になった「ヌレエフ」の衣装を担当したモスクワの会社に注文しました。ですから、今回は「プチャーチン・パレード」のために、歴史的な正確さを最大限に復元した衣装をモスクワから持ってきました。」
© 写真 : アナトリー・クラスノフ「港まつり」
「港まつり」
© 写真 : アナトリー・クラスノフ
パレード終了後、戸田港に設置されたステージで式典が行われ、モスクワの歴史衣装製作会社に特注したプチャーチン一行の衣装が沼津市に贈呈された。