スプートニク日本
ついこないだシニア入りしたわずか15歳。ウドムルト共和国イジェフスク出身で父親がアイスホッケーの選手。
ザギトワ選手は、今回のロシア杯の優勝ですでに五輪出場の保証を得たとされている。発言には慎重だった本人もとうとう五輪出場への野心を口にするようになった。
そこで今回、スプートニクはザギトワさんが自身を語ったインタビューから人物像に迫った。
どんな性格
ザギトワ選手は自分の性格について大人しいけれど一度リンクに上がると自分に自信をもって戦う意欲に満ちるという。自己分析では状況が困難になるほど力が出るタイプ。
「私は性格的に困難であればあるほどいいんです。両親も同じ性格で、パパは『イジスターリ』というアイスホッケーの監督をやっているんですけど、粘り強いのはパパ譲りです。」
母の夢が娘に
母親はフィギュアスケート選手を夢見ていた。だが、うまくいかなかったため、娘にその夢を託し、そのためにすべての力を注いだとザギトワ選手は語る。ということは幼い頃からスケートの英才教育で幸せな子ども時代はなかったかというと決してそうではない。
「フィギュア選手の多くの子ども時代とは違って、私のはとても幸せでした。専門的にフィギュアを開始したのは7歳からです。それまではただ滑っていただけで、何度か放り出したこともありました。6,7回でしょうか。スポーツに対する姿勢はホビーみたいだったので、楽しければ滑る。楽しくないからやめるという。」
憧れのトゥトベリーゼ門下 いざモスクワへ
本格的に始めたのは10歳くらい。何とかうまく滑ることができるようになり、大会に出場し始めたものの、入賞はわずか1度でしかも3位。後にモスクワのエテリ・トゥトベリーゼ監督の門下に入ると、スケートはそんなに楽なものではないことが身につまされるようになった。
「ママと私はずいぶん前からエテリ先生(トゥトベリーゼ)の門下に入りたいと話していました。モスクワで出場した大会最終日、イジェフスクに帰らないといけないのに、私はエテリ先生のところに行こうとママを説得したんです。汽車の時間に遅れるので滑りを見せられたのは40分ほどでした。そのときエテリ先生が言ったんです。『お正月過ぎたらいらっしゃい。採用試験にね。』私ときたら、もう採用されたみたいに舞い上がってしまって。」
まさかの破門
とはいえ、秀逸な生徒ばかりのトゥトベリーゼ監督門下での特訓は楽ではない。3カ月の特訓後、ザギトワさんは監督に破門された。
「そうなんです。ものすごくがっかりしてしまって、1週間、自分に戻れませんでした。」
破門された時、ザギトワ選手は大会で足の甲も手も骨折していた。イジェフスクの自宅で2週間の静養後は、リンクに戻っても全くうまくいかず、ゼロから滑りを覚えねばならない始末。とうとう両親とザギトワ選手はトゥトベリーゼ門下に戻る夢をきっぱりあきらめた。
「花束をもってエテリ先生にお別れを言いに行きました。今までありがとうございましたと。そしたら先生がおっしゃったんです。『もう1度やってみましょう』って。あんまり嬉しくて飛び跳ねてしまいました。うれし涙で。」
なぜ破門されたのか、その理由をザギトワ選手はこう分析している。
「その時までの私は練習とはどういうものかをわかっていませんでした。イジェフスクではみんな小さかったですから、やりなさいと強制されたことをしていたんです。ここにきて私は、すべてを自分でしなければいけないと認識しました。そうしたらすべてが素早く身につくようになったんです。」
親元を離れて
ザギトワさんは両親と離れ、モスクワで祖母とふたりで暮らす。才能豊かな子どもは故郷、親元を離れて大都市で教育を受けることは稀ではないが、ザギトワさんはあるテレビ番組でのインタビューで親のいない辛さを思い出し、思わず声を詰まらせたこともある。
「おばあちゃんとアパートを借りています。もちろん大変です。家がすごく恋しい。いいおばあちゃんで、私のお尻を叩いて、ミスを指摘してくれたり、時には叱ったりすることがなければこんなに多くは成し遂げられなかったはずです。おばあちゃんはフィギュアスケートに詳しくなりました。みんなわかってくれるので、足を伸ばせとか、手を挙げなさいとか言ってくれるんです。」
父親のイリナス氏は、アリーナさんの祖母は孫がタタール人の家族らしく母語を忘れないよう会話ではタタール語を使っていると話していた。
好きなことは
スポーツ以外に趣味は、番号塗り絵を塗ったり、ラインストーンで絵を描くのが好きで、気持ちが落ち着くという。
平昌オリンピックを目前に控えた今、怪我を理由にメドベージェワ選手が重要な大会に出場できないことを追い風に、ザギトワ選手の活躍はほとんど独断場状態にあった。だが、年明け、モスクワで行われる欧州選手権にはメドベージェワ、ザギトワ両選手の出場が決まっており、火花が散ることは間違いない。