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日本政府は2017年2月、世界遺産委員会に対し、キリスト教徒迫害と不可分に結びついた歴史を持つ長崎・熊本両県内12カ所について、ユネスコのリストに追加するよう要請した。これらの資産には、例えば、日本26聖人に捧げられた教会として有名な大浦天主堂が含まれている。この教会のファサードは、キリスト教を受け入れた日本人らが1597年に磔の刑に処せられた西坂の丘に面している。
日本でのキリスト教の普及は、日本史における最も劇的なページの一つだ。その起点と考えられているのは、日本で最初の説教の声が響いた1549年。九州南部の鹿児島でこの説教を行ったのは、日本にやって来たポルトガル人宣教師団長のイエズス会士、聖フランシスコ・ザビエルだった。ザビエルは、日本で最初のカトリック宣教師となった。新たな宗教はかなりの速さで信者を増やし始めた。キリスト教を受け入れた人々の中には、数人の大名さえいた。日本でのキリスト教徒に対する圧迫は、現在の大浦教会のファサードが面している西坂の丘で地元と外国のキリスト教徒26人が磔にされた1597年に始まった。
キリスト教に対するこれらの迫害には言外の政治的意味があったと、モスクワ大学の宗教哲学・宗教学講座主任を務めるイーゴリ・ヤブロコフ博士は考えている。「残酷な制裁をキリスト教徒に加えていた日本の幕府は、宗教そのものというよりはむしろ人々の反抗と不服従に対して戦っていた。また一方で、キリスト教を口実にして国内にスパイや、当時の日本的道徳の基礎を破壊する者が侵入するかもしれないと疑ってもいた。そのため、キリスト教との戦いは多くの場合、服従せず不満を持つ人々を鎮圧するためのきっかけだった。もちろん、これは主権と国家的一体性を守るという口実の下で行われた」。
ロシア正教会の広報部ではスプートニクに対し、日本政府のイニシアチブを支持し、もしユネスコの委員会が日本におけるキリスト教徒迫害の地を世界遺産リストに加えるのであれば、(ロシア正教会にとって)喜びとなるだろうと述べ、正教が日本にもたらされたのはカトリックよりも300年後だったと指摘した。当時、それ以前の数世紀にあったようなキリスト教徒に対する迫害は既になかったものの、宣教活動を行うことは簡単なことでは全くなかった。そして、日本における正教はその存在について、専ら日本初の正教宣教師個人から恩恵を受けている。この宣教師が、日本のニコライと後に呼ばれるようにさえなった、ニコライ神父である。ニコライは1861年に日本に到着したが、宣教活動を始めたのはもっと後、日本の言語や風習、文化を習得してからだった。
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