リモノフはニジニ・ノヴゴロド州生まれ。その後、モスクワで作家や芸術家のサークルに加わる。地下出版で反体制的作品を発表。1974年に亡命、ほどなく自伝小説『おれはエージチカ』をフランスで発表し、注目を集めた。
Эдуард Лимонов умер. pic.twitter.com/JGrOUXIZ6b
— Голос Мордора (@spacelordrock) March 17, 2020
ソ連崩壊後、ロシアに帰国して政治活動に身を投じた。俗語で手榴弾を意味する「リモンカ」を冠した政治新聞を発行。1994年には極右の思想家A・ドゥーギンとともに国家ボリシェビキ党を結成、ユーラシア主義の系譜に連なる政治組織として広く注目を集めた。国家ボリシェビキ党は2000年にラトビアの首都リガにある教会の爆破を計画し、複数の党員が逮捕される事件で物議を醸した。過激派組織として政党の解散を裁判所に命じられると、リモノフは2006年に政党「もう一つのロシア」を結成、他界するまで指導者として活躍した。
リモノフの死に際し、ロシアでは多くの作家、政治家が哀悼の意を表した。
ゴーリキー記念文学大学のA・ワルラーモフ学長はリモノフを「輝かしく、風変わりで矛盾に満ちた作家」と評価、リモノフ自身の経歴そのものが「言葉ではなく、振る舞い、行動、発言によってつづられた素晴らしい芸術」とコメントした。
現代作家のZ・プリレーピンはフェイスブックにコメントを投稿、欧州の共通理念が崩壊する時代にリモノフが他界したのは象徴的と記した。コメントの中でリモノフを「オヤジ」と慕い、指導的存在を失った現代ロシアの作家たちを「孤児」と評した。
下院のP・トルストイ副議長は交流の深かったリモノフについて、SNSへの投稿で次のように哀悼の意を評した。
彼は政府が国民の運命に全く無関心だった当時、国民を守ろうと躍起だった。文学であれ、政治であれ、「規範」と化した規則に立ち向かった。その徹底した姿は我武者羅で向こう見ずだった。その努力が無駄ではなかったと信じたい。
2020年4月には青春時代や亡命時代の回想をつづった遺作『旅する老人』が出版される。その序文にリモノフは次のように記した。
いい出来だ。若いころ、こんな本に出会っていれば、人生の見方はもっと変わっていたように思う。生い茂った緑、ぎらつく動物の目、女の目に宿る、自由への憧れ。そんなものに気が付いていたかもしれない。
「もう一つのロシア」関係者によれば、リモノフの遺言により、葬儀は近親者のみの密葬で行われる。リモノフは享年77歳、死因はガンによる多臓器不全だった。
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