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台湾 実現されなかった反攻作戦
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... 2022年8月19日, Sputnik 日本
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1965年、旧陸軍中佐の糸賀公一氏は、台湾軍が対岸の福建省に奇襲上陸し、広東州や江南州へ進軍するための詳細な計画の作成に参加した。糸賀氏の死後、この計画に関するいくつかの書類が見つかった。必要な経験を有していた日本の将校たち最初に強調しておかねばならないことは、台湾の軍事ドクトリンは、1979年まで、中国大陸への軍事侵攻の準備と中国大陸の統治権の奪還を目的としたものであった。これは、1949年に中国国民党が敗北し、中央政府を台湾へと移転させることとなった中国共産党と中国国民党の内戦(国共内戦)を継続しようとする試みであった。そこで、台湾軍の司令部がそうした計画を練り、そこに経験豊富な将校らを引き入れたとしてもそこには何の驚きもない。旧日本軍の将校らは、沿岸部で大規模な空挺作戦を行い、そこから有利に攻撃を展開するという経験を豊富に持っていた。たとえば、第二次上海事変では、1937年8月22日から23日にかけて、日本の3個師団が上海北部沿岸への上陸に成功した。激しい戦闘の後、1937年11月、中国軍は上海から南京に退却し、日本軍は中国南部の重要な戦略的拠点を占領した。1965年の計画はおそらく、他でもないこの戦闘を基礎に練られたと思われる。台湾は、はるかに大規模な中国軍にうまく対抗するために、日本の経験を必要としたのである。ミリタリー・バランス1965のデータを見ると、中国人民解放軍の規模は240万人で、それに対し、台湾軍は52万4000人であった。また中国人解放軍が保有していた航空機の数はおよそ2300機、一方の台湾は900機であった。パラシュート降下による上陸と攻撃は、1937年8月に日本軍が上海で行ったように、スピーディかつ確固たるものである必要があった。でなければ、成功はあり得なかったのである。ベトナム戦争を背景にこの計画はきわめて危うい時期に浮上した。1964年10月16日、中国は初となる核実験を行った。主に歩兵で構成された中国軍はかなり弱かった。しかし、中国人民解放軍が核兵器をまもなく手にするであろうという事実は、パワーバランスに変化をもたらした。つまり、手遅れにならないうちに、中国を叩くべきだという考えが生まれたのだと想像できる。もう一つ、重要だったのは、米国がベトナム戦争に介入したということである。1965年3月2日、北ベトナムに対する空爆が始まった。それは1968年11月2日まで続くことになる。北ベトナムへの攻撃はまず何より、南ベトナム共和国との戦争において、ベトコンと北ベトナム軍の戦闘能力を弱体化させるという戦略的な課題を持つものであった。しかし、この空爆が完全な形で成功していれば、米国は中国への侵攻を含め、より大規模に、アジアの共産主義国への攻撃を強めることができただろう。ベトナム戦争中、台湾には米軍部隊が駐留していた。規模はそれほど大きくはなかったが、軍備の性能は高かった。1965年、台湾には4100人の米軍兵士が駐留し、1967年には9000人であった。しかし、台湾には、航空機72機、そして、巡航ミサイルMGM−1(射程400キロ)、短距離弾道ミサイルMGM–29(射程139キロ)が配備されていた。また航空機およびミサイルには核弾頭を搭載することが可能であった。1958年、台湾の空軍基地には戦略核爆弾Mark7用の保管庫が建設されていた。この核爆弾は8〜61トンまでの威力を調整することが可能であった。この空軍基地に核兵器は1960年から1974年まで保管されていた。弱く見えた中国当初の計画は、共産主義国は、米国の最新の空軍部隊に対抗することができないだろうという想定に基づいたものであったことは明らかである。北ベトナムが南ベトナム軍によって壊滅状態に追い込まれれば、地域で決定打を打つための条件が整うことになるというわけである。そのとき、中国はウイグルの騒乱に直面し、それを弾圧するために、部隊を配置せざるを得なかった。また1959年にはチベット蜂起があり、1962年には中印国境紛争が起きた。1958年、米国は韓国に核兵器を配備、非武装地帯では北朝鮮軍と韓国軍が対峙した。1967年から1969年にかけて、南北朝鮮間では軍事衝突も発生した。そしてついに1962年、中国はソ連と対立し、事実上、その支援を失うこととなり、米国とその同盟国と1対1で、対決することとなった。中国は、1959年から1961年にかけて、旱魃などの自然災害と経済停滞に見舞われ、大飢饉を招く結果となった。犠牲者の数は少なくともおよそ1500万人に上る。このように、中国はかなり弱体化し、国外でも国内でも、敵に囲まれていると見られていた。戦争が起これば、中国は軍を分割する必要に迫られ、それが敗北の大きな要素となったであろうと考えられる。こうした中で、大規模な空挺作戦は功を奏するだろうと思われたことから、その詳細が練られるようになったのである。当ては外れたこの計画が実現されなかったのは、最新の空軍部隊や爆撃に対する当てが外れたからである。米軍は北ベトナムを「石器時代に戻す」ことはできなかった。米空軍は86万4000トンの爆弾を投じた。地上では、爆撃によって、2万〜3万人の北ベトナム軍兵士とおよそ18万2000人の民間人が死亡した。しかし、犠牲者を出し、街を破壊しつつ、北ベトナム軍とベトコンの戦闘能力を封じ込めることはできなかったのである。北ベトナムは米空軍と航空戦を展開し、その中で米軍は922機の航空機を失った。ある意味で、北ベトナムは自らの必死の抵抗によって、中国を外からの侵攻から守ったのである。比較的、小規模な北ベトナムからの爆撃に対処できなければ、中国に対処することなど期待できないからである。北ベトナム空軍と防空部隊は、米空軍に深刻な損害をもたらすことができた。およそ2000機のミグ15、ミグ19戦闘機を保有する中国空軍は、米軍を上空で破壊する可能性を有していただろう。そうなれば、空挺作戦の成功や大規模な中国陸軍に対する攻撃など期待できなかったのである。こうした理由から、日本の将校らによって考案された台湾軍の空挺作戦は延期され、その後、まったく忘れられたのである。
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台湾 実現されなかった反攻作戦
2022年8月19日, 18:08 (更新: 2022年8月19日, 19:16) 第二次世界大戦後、台湾に渡り、蒋介石の軍事顧問団になった旧日本軍将校が、中国大陸に対する台湾の反攻作戦に参加していたことがわかったが、この事実は、一見、衝撃的なことに思える。当時の世界情勢を鑑みると、それはアジアの共産主義国との戦争という大々的な計画の一部だったのだろうと考えることができる。しかしその計画は、結局のところ実現されなかった。
1965年、旧陸軍中佐の糸賀公一氏は、台湾軍が対岸の福建省に奇襲上陸し、広東州や江南州へ進軍するための詳細な計画の作成に参加した。糸賀氏の死後、この計画に関するいくつかの書類が見つかった。
最初に強調しておかねばならないことは、台湾の軍事ドクトリンは、1979年まで、中国大陸への
軍事侵攻の準備と
中国大陸の統治権の奪還を目的としたものであった。これは、1949年に中国国民党が敗北し、中央政府を台湾へと移転させることとなった中国共産党と中国国民党の内戦(国共内戦)を継続しようとする試みであった。そこで、台湾軍の司令部がそうした計画を練り、そこに経験豊富な将校らを引き入れたとしてもそこには何の驚きもない。旧日本軍の将校らは、沿岸部で大規模な空挺作戦を行い、そこから有利に攻撃を展開するという経験を豊富に持っていた。
たとえば、第二次上海事変では、1937年8月22日から23日にかけて、日本の3個師団が上海北部沿岸への上陸に成功した。激しい戦闘の後、1937年11月、中国軍は上海から南京に退却し、日本軍は中国南部の重要な戦略的拠点を占領した。1965年の計画はおそらく、他でもないこの戦闘を基礎に練られたと思われる。台湾は、はるかに大規模な中国軍にうまく対抗するために、日本の経験を必要としたのである。
ミリタリー・バランス1965のデータを見ると、中国人民解放軍の規模は240万人で、それに対し、台湾軍は52万4000人であった。また中国人解放軍が保有していた航空機の数はおよそ2300機、一方の台湾は900機であった。パラシュート降下による上陸と攻撃は、1937年8月に日本軍が上海で行ったように、スピーディかつ確固たるものである必要があった。でなければ、成功はあり得なかったのである。
この計画はきわめて危うい時期に浮上した。1964年10月16日、中国は初となる核実験を行った。主に歩兵で構成された中国軍はかなり弱かった。しかし、中国人民解放軍が核兵器をまもなく手にするであろうという事実は、パワーバランスに変化をもたらした。つまり、手遅れにならないうちに、中国を叩くべきだという考えが生まれたのだと想像できる。
もう一つ、重要だったのは、米国がベトナム戦争に介入したということである。1965年3月2日、北ベトナムに対する空爆が始まった。それは1968年11月2日まで続くことになる。
北ベトナムへの攻撃はまず何より、南ベトナム共和国との戦争において、ベトコンと北ベトナム軍の戦闘能力を弱体化させるという戦略的な課題を持つものであった。しかし、この空爆が完全な形で成功していれば、米国は中国への侵攻を含め、より大規模に、アジアの共産主義国への攻撃を強めることができただろう。ベトナム戦争中、台湾には米軍部隊が駐留していた。規模はそれほど大きくはなかったが、軍備の性能は高かった。1965年、台湾には4100人の米軍兵士が駐留し、1967年には9000人であった。しかし、台湾には、航空機72機、そして、巡航ミサイルMGM−1(射程400キロ)、短距離弾道ミサイルMGM–29(射程139キロ)が配備されていた。また航空機およびミサイルには核弾頭を搭載することが可能であった。
1958年、台湾の空軍基地には戦略核爆弾Mark7用の保管庫が建設されていた。この核爆弾は8〜61トンまでの威力を調整することが可能であった。この空軍基地に核兵器は1960年から1974年まで保管されていた。
当初の計画は、共産主義国は、米国の最新の空軍部隊に対抗することができないだろうという想定に基づいたものであったことは明らかである。北ベトナムが南ベトナム軍によって壊滅状態に追い込まれれば、地域で決定打を打つための条件が整うことになるというわけである。そのとき、中国は
ウイグルの騒乱に直面し、それを弾圧するために、部隊を配置せざるを得なかった。
また1959年にはチベット蜂起があり、1962年には中印国境紛争が起きた。1958年、米国は韓国に核兵器を配備、非武装地帯では北朝鮮軍と韓国軍が対峙した。1967年から1969年にかけて、南北朝鮮間では軍事衝突も発生した。そしてついに1962年、中国はソ連と対立し、事実上、その支援を失うこととなり、米国とその同盟国と1対1で、対決することとなった。中国は、1959年から1961年にかけて、旱魃などの自然災害と経済停滞に見舞われ、大飢饉を招く結果となった。犠牲者の数は少なくともおよそ1500万人に上る。このように、中国はかなり弱体化し、国外でも国内でも、敵に囲まれていると見られていた。戦争が起これば、中国は軍を分割する必要に迫られ、それが敗北の大きな要素となったであろうと考えられる。こうした中で、大規模な空挺作戦は功を奏するだろうと思われたことから、その詳細が練られるようになったのである。
この計画が実現されなかったのは、最新の空軍部隊や爆撃に対する当てが外れたからである。米軍は北ベトナムを「石器時代に戻す」ことはできなかった。
米空軍は86万4000トンの爆弾を投じた。地上では、爆撃によって、2万〜3万人の北ベトナム軍兵士とおよそ18万2000人の民間人が死亡した。しかし、犠牲者を出し、街を破壊しつつ、北ベトナム軍とベトコンの戦闘能力を封じ込めることはできなかったのである。北ベトナムは米空軍と航空戦を展開し、その中で米軍は922機の航空機を失った。ある意味で、北ベトナムは自らの必死の抵抗によって、中国を外からの侵攻から守ったのである。比較的、小規模な北ベトナムからの爆撃に対処できなければ、中国に対処することなど期待できないからである。北ベトナム空軍と防空部隊は、米空軍に深刻な損害をもたらすことができた。およそ2000機のミグ15、ミグ19戦闘機を保有する中国空軍は、米軍を上空で破壊する可能性を有していただろう。
そうなれば、空挺作戦の成功や大規模な中国陸軍に対する攻撃など期待できなかったのである。こうした理由から、日本の将校らによって考案された台湾軍の空挺作戦は延期され、その後、まったく忘れられたのである。