【人物】日本の足跡を探して 驚くほど多くの発見があるサハリン
2023年5月3日, 19:01 (更新: 2023年5月3日, 19:57)
© 写真 : Andrey Shoninショーニンさん
© 写真 : Andrey Shonin
サイン
サハリンは、多くのロシア人はもちろん、それ以外の国の人々にとっても憧れの地である。作家アントン・チェーホフは、1890年、囚人のための流刑地であったサハリンの土を踏んだ。また村上春樹は、2003年に、新たな題材を求めてサハリンを訪問している。日本は40年にわたり(1905〜1945年)、サハリンを領有し、その歴史に大きく関与した。そしてその足跡は今も島のあちこちに残されている。日本時代の建築物はサハリン在住の人々の間でもよく知られているが、それ以外の樺太時代の品々は今も偶然発見されることもあり、またそれを特別に探している人もいる。そんな日本の足跡を探し求める1人が、サハリン生まれで、全ロシア社会捜索運動サハリン支部の創始者、アンドレイ・ショーニンさんである。
ショーニンさんは長年にわたり、発掘活動を行なっているが、最近、YouTube上に、自らが発見したものを動画で投稿するようになり、多くのフォロワーが関心を示している。そんなショーニンさんが、「スプートニク」のインタビューに応じ、自身の活動について語ってくれた。
今のこうした活動は、わたしの友人が土の中から日本の食器を見つけたことがきっかけで始まりました。その友人に一緒に発掘しようと誘われたんです。最初は1904〜1905年の(日露)戦争に関連したものを探していました。ですが、その後、100年以上前の文化層の発掘を禁止するという法律が発効しました。それで、第二次世界大戦時のものを発掘するようになりました。2012年に全ロシア捜索運動のサハリン支部を立ち上げました。この捜索運動というのは兵士の遺体の発見を行なっている団体です。サハリンの50度線周辺で発掘活動を始めて10年になります。安別という日本の村があったところで、毎年、そこではロシアと日本の兵士たちの遺体が見つかっています。2014年にシュムシュ島に行きました。ここでは1970年代と1990年代に、発掘調査が行われたのですが、その後、活動は行われていません。わたしたちが訪れたとき、最初は何も見つからなかったのですが、わたしの金属探知機が小さな音を出して、そこを掘り始めてみると、すぐに兵士の遺体がいくつか見つかりました。
1946年1月26日付けのソ連の記録文書によれば、戦闘の開始前の南サハリンの人口は39万1000人で、そのうちの28万6000人が14の都市在住で、10万5000人が村の住民であった。かつて村があった場所はすでにかなり前に森林となっている。
そんな場所でどのように発掘は行われているのだろうか。
2000年にこの活動を始めたときには、わたしのような関心を持っている人はあまりいませんでした。しかしその後、金属探知機というものが現れ、情報も多くなり、地図が手に入るようになると、こうした活動家は増えていきました。わたしたちは1933年の日本の地図と赤軍の地図、戦後の地図を手がかりに捜索を行っています。わたしはサハリン・オフロードカー・クラブの会長をしていて、サハリン全域を周りました。長いこと、こうした活動を続けていると、鑑識眼がついてきて、それぞれの土地の特徴もすぐに分かり、どちらに行けばいいのかも分かって来ます。そうすると、捜索活動はやりやすくなって来ますが、地中に埋まっているものは少なくなっていきます。わたしたちはたくさんの発見物を、最近ユジノ・サハリンスクに作られた博物館に寄贈しています。
日露戦争でロシア帝国が敗戦した後、サハリン島の南半分とクリル諸島(北方四島)は日本に割譲され、
北緯50度線に、ロシアと日本の国境が引かれた。1907年3月、日本の睦仁天皇が樺太庁という行政府の発足に関する勅令を出し、大泊町(現在のコルサコフ市)が行政の中心地に据えられた。
そしてその後、1908年8月には庁舎は豊原市(現在のユジノ・サハリンスク)に移された。
サハリンの土の中からはどのようなものが発見されているのか。
サハリンは驚くほど豊富な発見物があります。かつて日本人が住んでいた村からは、食器、斧、鉄のかまど、アイロン、コイン、メダル、バックル、パイプ、硬貨など、実にたくさんのものが発見されています。わたし自身が見つけたものの中にもかなり貴重なものがあります。1つ目は金の指輪です。それから2つ目は150〜160センチほどの高さがある、開け閉めできる扉がついた英国式の郵便ポストです。それから3つ目は寺院の鐘です。鐘はかなり傷がありますが、今でも独特の音を出してくれます。発見したものに文字が入っていれば、価値はさらに上がります。それを基にして、それが誰のものだったのか、あるいは何のために使われていたのかが分かるからです。日本人はそれぞれのものに、用途についてメモ書きを添付するという習慣が進んでいました。ソ連あるいはドイツの発掘物には概して、番号が打ってあるだけですが、日本の食器には詩が書かれていたり、何か願いごとが記されていたり、製作者の名前の刻印があったりします。斧などの道具には職人の名前が彫られています。また薬の小瓶だと、それが何の薬であるのかが書かれています。その瓶の色あいは本当に美しいものです。ウランガラスは紫外線に当てると、いろんな色に光るのです。土の中から取り出した瓶は泥で汚れていますが、洗ってみると、黄色やピンク色に光ってとってもきれいなんです。日本人は芸術に長けていて、それぞれの品の裏に隠されたものを見ているかのようですね。
サハリンにある日本の足跡はこうした日用品だけでなく、建築物の中にも見ることができる。最も日本的な建物といえば、ユジノ・サハリンスクにあるサハリン州郷土博物館である。これは1937年に建築家、貝塚良雄の設計で建てられた樺太庁博物館である。
中世の日本の城にも似たその建物はかなり際立ったものである。アンドレイ・ショーニンさんによれば、ほぼすべての町に日本時代に建てられた建築物が残っているという。また村では、今も、木造の日本の家屋を目にすることができる。外観は修復されているが、それでも日本のものであることはすぐに分かる。また本殿もサハリンは数十残っている。
トマリには、灯台、鳥居がある。とても美しく、それらの建築物は保護され、多くの観光客が見学に訪れている。
歴史というものは、いつでも面白いものです。特に、自分の生まれ育った土地の歴史というものは、それがどのようなものであろうと、興味深いものです。だから人々は発掘をし、見つけたもので、独自のコレクションを作っています。最近は誰も博物館に寄贈しなくなりました。というのも、博物館に譲っても、収蔵庫に保管されるだけで、誰かに見てもらう機会がまったくないからです。そこで、工房やガレージなど、自分でスペースを作って、そこに発見したもののコレクションを保存しているという人が多いですね。もっとも、そのコレクションを誰かに公開しているという人はまだいません。それで、自分が発掘したものについて、YouTubeチャンネルで話したらいいのではないかというアイデアが浮かんだのです。最初は、老後に自分でそれを楽しんだり、子どもたちに見せられたらいいなと思い、始めたのですが、このスタイルが多くの人に気に入ってもらえたようです。
日本時代を思い出させる品々は、発掘している人だけでなく、ごく普通のサハリン市民の家にもある。
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ショーニンさんは、自分のコレクションを作ろうとは思わなかったのですかという「スプートニク」の問いに、次のように答えている。
わたしはまだコレクターにはなりきれていません。わたしは探すというプロセスそのものが好きなのです。掘り出して、それを調査して、棚に並べておくのですが、そのまま数年忘れてしまうということもあるくらいです。ここ半年くらい、ようやくその品々を整理し、洗って、きれいにするようになりました。これは大変な作業なんです。それぞれの品に正しい洗い方があります。硬貨は化学薬品を使わなければなりませんし、パイプは種類の違うサンドペーパーが必要ですし、かまどをきれいにするにはサンドブラストを使うといったように、です。この活動を行なっている人たちは、発見した品々を使われていた状態に戻すために一生懸命取り組み、お金を投じています。
最後に、アンドレイ・ショーニンさんは、もちろん、調査から「手ぶらで帰る」こともあるが、すべては心の持ち方にあると話してくれた。
今日は今まで一度も行ったことのない場所に発掘に行きました。何も見つけることはできませんでしたが、その昔、日本人が住んでいた森に行くことができました。このような厳しい条件下で彼らはどんな生活をしていたんだろうと思いを馳せました。というのも、サハリンは日本と異なり、気候も厳しく、冬は雪が多く、森も入り組んでいて、土地は荒涼としています。そんな場所で日本人は木を伐採し、用水路を作り、家を建て、野菜を栽培し、家畜を育てました。それは大変な苦労だったでしょう。都市に住んでいた人々はまた違う状況だったと思います。ですが、わたしは、サハリンにやってきて、この土地で自分たちの生活を確立した普通の農民たちの気持ちは理解できるような気がするのです。