【解説】南米はいかにしてナチスの安住の地となったか
© AFP 2023フランスとスペインの国境にあるアンダイ駅で、スペインのフランシスコ・フランコ軍人(大元帥)と握手するナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー首相(右)。 1940年10月23日
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ナチスの第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(ウクライナ第1)に所属していた ウクライナ人「退役軍人 」ヤロスラフ・フンカ氏(98)は、カナダ議会で喝采を浴びた話が国際的に反響を呼び、世界のマスコミの注目の的となった。カナダのある軍事雑誌が発表した推計によると、同国にはヒトラーの部隊員が少なくとも2000人は住んでいる。ところが、ナチスの残党を保護したのはカナダだけではない。かつては南米も彼らを匿っていたのである。スプートニクは、なぜ南米が逃亡ナチスの拠点となったのか、専門家に話をきいた。
メンゲレの人体実験方法は非常に残酷で、麻酔なしで手術を行い、臓器を摘出するなど、正真正銘の拷問であった。 メンゲレはナチスの強制収容所に送られた3000人以上の双子に対して人体実験を行った。 生き残ったのはわずか200人。彼は「死の天使」と呼ばれた。
メンゲレは1940年代後半、逮捕から免れるためにアルゼンチンに逃れ、その後ブラジルに渡った。そして周囲の協力を得ながら、サンパウロ州を転々とし、1970年代には友人のヴォルフガング・ゲアハルトを騙り、その書類を使って、身元を変えた。
多くの犯罪を犯したにもかかわらず、メンゲレが逮捕されることはなかった。皮肉なことに、彼は1979年にサンパウロ沿岸のベルティオガの海岸で溺死した。
1985年、ブラジル連邦警察は3カ国の法医学チームの協力を得て、サンパウロ州エンブに埋葬されていたメンゲレの遺体を掘り起こし、それが30年以上も逃亡していたナチス犯と同一人物であると結論づけた。
ナチス残党の逃走ルート「ラットライン」、幇助した地元エリート、多国籍企業、カトリック教会
アメリカ大陸はナチスの将校、学者、兵士、協力者の逃避場所として知られる。ここはカトリック聖職者、多国籍企業、米国諜報機関、ナチス残党、地元のエリートたちが幇助する「ネズミの抜け道(ラットライン)」を通じて、何万人ものナチス逃亡者を受け入れてきた。
リオデジャネイロ州立大学(UERJ)アメリカ研究センターの歴史講師兼研究員であるジョアン・クラウディオ・ピティーリョ(João Cláudio Pitillo)氏によれば、このような「ラットライン」が容易につくられた背景には、過去数十年間のドイツ人やイタリア人の移民による緊密な文化的つながりから、ファシスズム・イデオロギーの政党への地元エリートの参加、多国籍企業との経済的つながり、戦後の地政学的利害関係まで、多くの理由があるという。
「この地域のイタリアとドイツの植民地支配は非常に強力でした。このため、文化的な結びつきは広がる一方だったのです。このような関係があったために、独伊からの人々の移住はスムーズに行われるようになりました」
これに加え、ラテンアメリカの人口は1960年代までは少なかった。それが「外国人ファシストの存在を隠すのに役立った」という事実もある。彼らの多くは、ポルトガルのアントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(1889~1970年)やスペインのフランシスコ・フランコ(1892~1975年)政権のおかげで、文書やパスポートを手に入れていた。
「弾圧の仕組みはナチス・ドイツが手本」
だが、なぜ南米はナチスをここまで庇護したのだろうか。ピティーリョ氏は、その本質は冷戦時代の新論理に則った 「弾圧政策 」の実施に、ナチスをうまく利用することにあったと見ている。冷戦の新論理は、「革命運動や社会主義運動との戦いを支援 」することにあった。
「例えば、アドルフ・アイヒマン(ホロコーストの主犯の一人)はフォルクスワーゲンで働いていました。フォルクスワーゲン社内でアイヒマンの正体を知っている人はほとんどいませんでしたが、経営トップは知っていました。このフォルクスワーゲン社はブラジルの独裁体制で積極的な役割を果たし、従業員まで迫害しています。言い換えれば、まさにこの弾圧の仕組みが、両手を広げてファシストたちを受け入れていたわけです」
© AP Photo / Dan Baliltyアイヒマンをアルゼンチンから密航させたイスラエルの偽造パスポート
アイヒマンをアルゼンチンから密航させたイスラエルの偽造パスポート
© AP Photo / Dan Balilty
ピティーリョ氏が引用したもう一つの例は、同じくナチス親衛隊将校であったニコラウス・“クラウス”・バルビーのケースである。
ボリビアとペルーの独裁政権樹立に直接的な役割を果たしたバルビーは、両国の弾圧的体制の構築に手を貸していただけではなく、米国CIAにも雇われていた。.
「この弾圧の仕組みはナチス・ドイツをモデルとしています。同じ仕組みが仏(アルジェリアやベトナムで仏がとった行動に顕著に発露)、スペイン、ポルトガル、そして特に西独やイタリアのような国々で構築されていきました。拷問の 『科学的な体系化』やスキルは、ラテンアメリカ全体で用いられていきます。決死隊、国家警備隊、特殊部隊、秘密作戦(最も有名なのは『コンドル作戦』)と、これらはすべてファシストの方法論と直接的な関係があります」
「ナチスは多くが潜伏、逃亡先の迫害政治の協力者も」
アメリカ大陸は何千人ものナチス退役軍人や協力者を受け入れた。ヨーゼフ・メンゲレ、ヴァルター・ラウフ、フランツ・シュタングル、ヨーゼフ・シュヴァンベルガー(Josef Schwammberger)、エーリッヒ・プリーベケ、ゲルハルト・ボーネなど、戦中・戦後の行動で最もよく知られたこれらの人々は表に出たがらない人々を支援した。ピティーリョはこれは「自衛策」だったと語っている。
「ヨーゼフ・メンゲレはブラジルで死亡し、別の名前で埋葬されていますが、同じく戦後逃亡し、ナチスとのつながりを維持していた他の数人のドイツ人とも関係を保っていました」
もうひとつの例は、ヨーロッパで最も危険な男として知られるオットー・スコルツェニー。スコルツェニーはフランコ政権時のスペインに難民として入国し、自分の経営する貿易会社を通じてラテンアメリカの数カ国と関係を保っていた。
ナチスは「アメリカ帝国主義」に利用され、再統合を果たす
第二次世界大戦が終わるや否や、新しい世界論理がこれにとってかわった。その新世界でナチスは、冷戦を活発に動かす一因子となった。
ピティーリョ氏は、敗北したはずのナチスがいくつかの国に接近を果たせたということは、これらの国にその要因があると語る。
「より民主的な議論が行われ、ファシズム抑圧が広く行き届く国であれば、彼らは近づくことができなかったはずです」
米国はこの機を利用し、作戦コード名「ペーパークリップ作戦」を展開。ヒトラーの元で働いていた多くのドイツ人科学者、特にロケットや兵器の開発者を秘かに招き、米国社会に組み込んでいった。またラテンアメリカやその他の国々は、「リヨンの虐殺者」として知られるクラウス・バルビーのような拷問や弾圧の専門家を招き寄せた。
ナチスの弾圧システムを多く吸収した国家がもうひとつある。旧西独(ドイツ連邦共和国)だ。西独は多くのナチスを更生させ、警察システムに組み込んだ。
「西独の司法制度は、すべてナチスの裁判官で構成されています。米国は上手く調整し、これらの国がファシズムを括弧付きで残すよう仕向けました。なぜならこうした国々の多くは反共主義だったからです」
「ファシズムの復活をひたすら夢見てきた」
ラテンアメリカでのファシズムとナチズムの歴史には、もう一つの重要な点がある。それは現地のエリートがこのイデオロギーを採用したことだ。例えば、ブラジルにはドイツに次ぐ最大のナチ政党が存在していた。
「米国には未だにナチスの政党や組織があります。それに対して、ラテンアメリカではほとんどの国が第二次世界大戦が原因で禁止しました。それでも戦前は、ナチスの政党は合法で、ヨーロッパの親組織と非常に密接な関係を持っていたのです。戦前、ナチズムに同調していた地元のエリートたちは、戦後もナチズムの自認をやめるどころか、秘密裏に活動を始めました。かれらは自分たちにとって重要な英雄で、戦争には負けたが助けを必要としている人々を援助し続けたのです。そして彼らはファシズムの復活をひたすら夢見ていました」
ピティーリョ氏は、ブラジルの軍部は常に世界大戦に参戦しようとするジェトゥリオ・ヴァルガス元大統領の立場に反対していたと指摘している。
「軍部はアルゼンチンやチリと同じく中立に立ち、それによって結果的にドイツに有利になることを望んでいたのです」
第二次世界大戦末期、ヴァルガス政権はファシズムとナチズムの協力者に対する大規模な大赦を宣言。ピティーリョ氏は「このことは、南米の歴史の新たなページをめくりました。なぜなら当時ラテンアメリカ全土が冷戦にどっぷりと嵌り込んでしまったからです。そのイデアとは共産主義者との闘争でした」と語る。
「ブラジルはラテンアメリカで最大の戦争被害を受けた国です。30隻以上の船が撃沈され、1000人以上の人命を失いました。にもかかわらず、結局はナチズムとファシズムの協力者の本格的な捜査を行おうとはしなかったのです」