日本でのキリスト教徒迫害の地、世界遺産リストに登録か

17世紀から19世紀にかけての日本におけるキリスト教徒圧迫の歴史に関連する資産について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関が、世界遺産の地位を与えることが相応しいと勧告した。ユネスコ世界遺産委員会はこの提案を、今年6月24日から7月4日にかけてバーレーンで開かれる第42回世界遺産委員会で承認するとみられている。
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日本政府は2017年2月、世界遺産委員会に対し、キリスト教徒迫害と不可分に結びついた歴史を持つ長崎・熊本両県内12カ所について、ユネスコのリストに追加するよう要請した。これらの資産には、例えば、日本26聖人に捧げられた教会として有名な大浦天主堂が含まれている。この教会のファサードは、キリスト教を受け入れた日本人らが1597年に磔の刑に処せられた西坂の丘に面している。

日本でのキリスト教の普及は、日本史における最も劇的なページの一つだ。その起点と考えられているのは、日本で最初の説教の声が響いた1549年。九州南部の鹿児島でこの説教を行ったのは、日本にやって来たポルトガル人宣教師団長のイエズス会士、聖フランシスコ・ザビエルだった。ザビエルは、日本で最初のカトリック宣教師となった。新たな宗教はかなりの速さで信者を増やし始めた。キリスト教を受け入れた人々の中には、数人の大名さえいた。日本でのキリスト教徒に対する圧迫は、現在の大浦教会のファサードが面している西坂の丘で地元と外国のキリスト教徒26人が磔にされた1597年に始まった。

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1614年には、キリスト教の布教を禁ずる法令が布告された。教会は破壊され、宣教師は追放され、信者は迫害された。1637~38年に起き、幕府が「野蛮なキリシタン」を非難した島原の乱の鎮圧後、反乱軍に参加した数万人は斬首され、彼らが避難していた原城は燃やされた。原城の廃墟もまた、世界遺産リストに登録される可能性がある。キリスト教の禁止は、その後長年にわたる日本の鎖国政策を決定づけた要因の一つとなった。明治の改革が始まってから、日本でのキリスト教宣教師らの活動は再開され、一連の隠れキリシタン(基本的にはカトリック信者)が「地下から」出て来た。1864年に建てられた大浦天主堂は、キリスト教迫害後に日本で現れた最初のキリスト教会となった。

キリスト教に対するこれらの迫害には言外の政治的意味があったと、モスクワ大学の宗教哲学・宗教学講座主任を務めるイーゴリ・ヤブロコフ博士は考えている。「残酷な制裁をキリスト教徒に加えていた日本の幕府は、宗教そのものというよりはむしろ人々の反抗と不服従に対して戦っていた。また一方で、キリスト教を口実にして国内にスパイや、当時の日本的道徳の基礎を破壊する者が侵入するかもしれないと疑ってもいた。そのため、キリスト教との戦いは多くの場合、服従せず不満を持つ人々を鎮圧するためのきっかけだった。もちろん、これは主権と国家的一体性を守るという口実の下で行われた」。

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これらの資産がユネスコのリストに加えられるということは、国家権力の行動が公正でなかったと認めることだと、歴史学博士のアレクサンドル・メシチェリャコフ氏はスプートニクとのインタビューで述べている。「もちろん、これらの出来事、即ちキリスト教徒に対する迫害は破壊的な性格を有していた。しかし、この場合は問題となっているのが無実の人々の記憶を不滅のものとすることであるため、これは全く歓迎すべきことだ。なぜなら、世界遺産の記念物は、何をしてはいけないかということについて人類に思い起こさせ、警告する使命を帯びているからだ。このような精神的記念物に属するのが、例えば1915年のアルメニア民族虐殺(ジェノサイド)だ。これはこの出来事についての記憶であり、このことが歴史の中で繰り返されてはならないという警告なのだ。そして、日本自らがこれらの記念物を不滅のものとする提案を持ち込んだことについては、これらの行動が不公正だったことを国家が認めた実例だと、私はみなしている」。

ロシア正教会の広報部ではスプートニクに対し、日本政府のイニシアチブを支持し、もしユネスコの委員会が日本におけるキリスト教徒迫害の地を世界遺産リストに加えるのであれば、(ロシア正教会にとって)喜びとなるだろうと述べ、正教が日本にもたらされたのはカトリックよりも300年後だったと指摘した。当時、それ以前の数世紀にあったようなキリスト教徒に対する迫害は既になかったものの、宣教活動を行うことは簡単なことでは全くなかった。そして、日本における正教はその存在について、専ら日本初の正教宣教師個人から恩恵を受けている。この宣教師が、日本のニコライと後に呼ばれるようにさえなった、ニコライ神父である。ニコライは1861年に日本に到着したが、宣教活動を始めたのはもっと後、日本の言語や風習、文化を習得してからだった。

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