中村医師はその73年の人生のうち30年以上をアフガニスタンに捧げた。中村医師を支援するために設立された「ペシャワール会」は、アフガニスタンに住む人たちへの医療サービスの提供、戦争で荒廃したアフガニスタンの復興・開発、特にダムや灌漑用水路の建設や井戸掘りの支援を専門としている。
アフガニスタンに命をささげる用意がある
中村医師は1984年に日本キリスト教海外医療協力会の派遣医としてアフガニスタン北西部ペシャワールに赴任し、ハンセン病患者の治療や難民の診療に従事した。それからしばらくして、中村医師はパキスタンと国境を接するナンガルハル州に3つの診療所を開設し、そこで5~6年働くつもりだったが、結果的に亡くなるまでその地にとどまった。
中村医師はすぐに地元住民の健康問題の主な原因は栄養失調であることを確信した。飢餓からの脱却を目指し、中村医師は人道支援活動を農業と灌漑、特にアフガニスタン東部の用水路建設に拡大した。2000年にアフガニスタンを干ばつが襲ったとき、栄養失調と水不足が原因で病気が急増した。中村医師は「医者を100人連れてくるより水路1本作ったほうがいい」と述べた。2003年には中村医師主導で全長25.5キロにも及ぶ灌漑用水路の建設がナンガルハル州で始まった。なお中村医師によると、その際には、200年以上前に自身の故郷・福岡で近代的な機材を使わずに築造された灌漑設備を参考にしたという。
中村医師は、さらに8つの用水路を手掛け、これらの用水路によって合わせて1万6000ヘクタールの田畑が潤っている。中村医師は「武器や戦車では問題は解決しない。農業の復活こそが、アフガン復興の礎だ」と確信していた。中村医師の貢献が評価され、アフガニスタン政府は中村医師に名誉市民権(市民証)を授与した。
中村医師は、アフガニスタンで常に命の危険にさらされていた。同氏はかつて、米軍のヘリプターによる機関銃攻撃から奇跡的に逃れたことがった。また、川の氾濫の危険性を知り、ダムを守るために直ちに行動を起こしたこともあった。中村医師はかつて、アフガニスタンに命をささげる用意があると述べていた。そして、そのようになった。
中村医師の記憶は同氏の事業に残っている
中村医師は、故郷の福岡に埋葬された。2022年11月26日には福岡市で中村医師を追悼する会が開かれ、数百人が出席した。中村医師の長女・秋子さんが遺族を代表してあいさつし、「父が生前、庭に植えた木々が枝を伸ばし花や実をつけ、勢いよく成長する緑を見ていると、父がそばにいるような感じがします。アフガニスタンの人たちが食べて生活できるのがあたり前になる日が一日でも早く来るよう願っています」と述べた。
人生の大半をアフガニスタンに住む人々の救済と生活環境の改善にささげた中村医師の記憶は、もちろんアフガニスタンにも残っている。2022年10月、ジャララバードに中村医師の功績をたたえる広場が完成した。広場には、中村医師の写真やその支援活動を記したモニュメントが設置された。このモニュメントや、中村医師が建設したダムや灌漑施設、診療所などは、長きにわたって同氏の功績を顕彰する記念碑となるだろう。
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