【特集】露日友好史の先駆者たち 帝国ロシアに漂着の初の日本人の足跡を追って

「18世紀から19世紀にかけての露日関係史の出来事について学ぶとき、わたしはいつも頭の中で、現代の日本について、また日本とロシアとの関係について考えるようにしています。日本人にとって歴史というものは、単なる過去よりもはるかに大きな意味を持つものであり、だからこそ、歴史の研究とその内容の公開は、ロシアとの両国関係をポジティブに発展させるためにも、重要なことだと考えています」。「スプートニク」からの取材に対し、そう語るのは、サンクトペテルブルクにある東洋古文書研究所の研究員である歴史学者で日本学者のワシーリー・シェプキン氏である。
この記事をSputnikで読む
シェプキン氏は、自らの論文「帝政ロシアの日本人」の中で、まだ互いにとって未知の国であり、日本とロシアの間に明確な国境すら存在しなかった時代に、運命のいたずらによってロシアにたどり着いた最初の日本人についての研究を発表した。そのような研究は、ロシアの古文書館に保管されていた文書にも基づきながら、日本では行われていた。そのさまざまな国の研究者たちの目を通して見た歴史は、互いに矛盾している場合も多々あるが、まさにそうした多重度によって、より興味深いものになっている。
ワシーリー・シェプキン氏
というわけで、ここでは、ロシアにおける最初の日本人に関するワシーリー・シェプキン氏の研究の一部をご紹介したい。
シェプキン氏:ロシアにやってきた最初の日本人は、カトリック教会修道士、ニコラス・デ・メロと共に旅した人物でした。彼の本名や生年月日については、はっきりしていませんが、幼児期に両親とともにフィリピンに移り住み、そこで修道士となり、ニコラスという修道士名を与えられました。2人の修道士は17世紀の初頭に、フィリンピンからヨーロッパに向かう途中で、モスクワに入りました。当時、ロシアは動乱時代で、カトリック教徒に対しては、かなり猜疑心を持っていました。そこで2人は、宿泊していたイタリア人医師の娘に、不法な洗礼儀式を行ったとして、ソロヴェツ修道院に幽閉されました。その後の2人については、処刑されたという説もあれば、逃亡することができたという説もあります。しかし、公式的にはニコラスはロシアの地を踏んだ最初の日本人とされてはいますが、彼がそこに自分の足跡を残すことはできなかったでしょうし、自分の国について何か伝えることもできなかったでしょう。というのも幼児期に日本を去ってしまっているからです。
それ以降にロシアにやってきた日本人は、乗っていた船が日本の沿岸部から遠く流された結果、ロシアにたどり着いています。そして、そのほぼ1世紀後、カムチャツカに日本人がやってきて、ロシアの日本語教育の端緒を開いたのである。
シェプキン氏:1696年から1699年にかけて行われたロシアの最初のカムチャツカ遠征で、その遠征隊を率いていたウラジーミル・アトラソフは、地元の住民であるイテリメンから、そこで捕虜となっている外国人がいることを知りました。名前は伝兵衛、大阪生まれの人物でした。アトラソフが伝兵衛のことをロシア政府に知らせたところ、政府はモスクワに連れてくるよう命じました。1701年、伝兵衛はロシアの首都に辿り着き、1702年1月8日、モスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村で、ピョートル1世に謁見しました。ピョートルは日本について色々と尋ねました。というのも、ピョートルはオランダを訪問した際に、日本について耳にしたことがあったからです。そして、伝兵衛は、ロシアの子どもたちへの日本語教育に携わるよう指示されました。1710年、伝兵衛は洗礼を受け、ガヴリイル・ボグダノフという洗礼名を与えられたわけですが、それは伝兵衛にとって、キリスト教が禁じられていた日本に帰国する道が閉ざされたことを意味しました。その後、伝兵衛についての足跡は歴史的な文書には記されていません。しかも、教師としての活動に関する正確な記録も残っていないのです。しかし、1714年の資料には、同じような形でカムチャツカにたどり着いた者を伝兵衛の助手として派遣するよう依頼したという間接的な証拠が残っています。
1710年、カムチャツカの沖に、また別の日本の船が漂着したのです。乗組員の1人だった三右衛門(ロシアではサニマと呼ばれた)が、伝兵衛の助手に選ばれました。そして、1714年、三右衛門はモスクワに派遣されました。しかし、彼は伝兵衛と一緒に日本語の指導を行ったのか、それとも別々だったのかについて記録はありません。シェプキン氏は、次に日本人がロシアにやってきたのは、1729年の船の海難事故によるものだったとして、さらに次のように続けている。
シェプキン氏:これはもっとも悲劇的な事件の一つです。半年にわたり、太平洋上を漂っていた17人の乗組員がカムチャツカ沖に漂着しました。しかし、乗組員たちが岸に上がり始めたとき、船長を含めた15人は、そこに暮らすコサックやカムチャダール人たちに殺されました。生き残ったのは、36歳のソウザと船長の息子の11歳のゴンザの2人だけでした。2人は1736年にペテルブルクに送られました。その年が、ペテルブルクの日本語学校の創設年と考えていいでしょう。学校は、クンストカメラ(現在はウニヴェルシテツカヤ河岸通り3番地)の中にありました。ソウザは、その年に亡くなりました。デミヤン・ポモルツェフという名を与えられていたゴンザは3年にわたり、学生を指導しただけでなく、日本語学習のための教科書の執筆を行いました。1739年にはゴンザが21歳で亡くなりました。しかし、彼は日本語の文法書、会話集を執筆、そして1万語を収録した最初の露和辞典を編纂しました。ゴンザによって作られた本は、ペテルブルクの東洋古文書研究所に保管されています。
ゴンザ編纂の露和辞典
1985年、日本の言語学者、村山七郎がこの辞書を日本で再出版し、今でも日本の研究者の間で関心を集めています。次の事件が起きたのは1745年である。
シェプキン氏:カムチャツカに今度は多賀丸という船が漂着しました。これがもっとも多くの日本の船員が生き残った船です。この頃までに、地元の人々に対し、漂着した日本の船員に対して敵意を示すことが禁じられていました。残念ながら、そのほとんどはロシア名しか知ることができません。日本の本名が記録されている例はいくつかしかありません。その多くの船員、そしてロシア人の妻との間に生まれた子どもたちが日本語教師になりました。1753年、ペテルブルクの日本語学校をイルクーツクに移すという決定が下されました。通訳が必要になる場所に近いところへという理由からです。そしてこの船でロシアに漂着し、ロシアのさまざまな都市で日本語を教えていた日本人もイルクーツクに派遣されました。この学校は1816年まで存在していました。
アンドレイ・タタリノフによる初の露和辞典(1782年作成)
それに続いてロシアにやってきた日本人は、初めて日本に帰国できたことでよく知られている。またこの日本人グループについては、ロシア滞在についての資料も日本に戻ってからの資料もたくさん残っている。この出来事を下敷きにした映画、露日合作映画「おろしあ国酔夢譚」(緒形拳主演)が制作され、1992年に公開されたのも偶然ではない。
シェプキン氏:1782年、百姓彦兵衛の持船、神昌丸が暴風に遭い、アリューシャン列島に漂着しました。日本人の船員たちは、カムチャツカに向かうロシアの船に乗船できるまで、4年もの間、そこで過ごしました。そのうち6人は壊血病で亡くなりましたが、船長である大黒屋光太夫を含む残りの船員たちは、カムチャツカに送られ、その後、イルクーツクへと移されました。ここで大黒屋光太夫は、学者のエリック・ラクスマンと出会うのですが、ラクスマンは日本への帰国を願う船員たちの運命に大きく関与しました。ラクスマンは光太夫の帰国を、日本との貿易・外交関係の樹立のきっかけにしようと考えたのです。そしてラクスマンと光太夫はロシア政府からの許しを得るため、ペテルブルクに向かいますが、2人は温かく迎えられました。大黒屋光太夫は、そこで日本の地図を描いたのですが、この地図は現在、ロシア内外のさまざまな古文書館に保管されています。また光太夫はエカテリーナ2世と謁見し、その際、船の中で読んでいた本を献呈しています。これは初めてロシアにもたらされた日本語の本であり、これらの本は現在の東洋古文書研究所であるアジア博物館の日本コレクションの基礎となりました。
大黒屋 光太夫が作成した日本地図(1791年作成、エストニア国立古文書館、クルーゼンシュテルン家所蔵文書)
エカテリーナ2世の承認をえて、1792年9月、エリク・ラクスマンの息子であるアダム・ラクスマン率いる代表団が、日本に向かいました。日本政府はロシアとの通商関係については拒否したものの、船を長崎の港に帰港させることは許可しました。大黒屋光太夫と仲間の磯吉は政府に受け入れられました。2人は生涯、ロシア問題に関する貴重な助言役となり、また回想録を残しました。一方、ワシーリー・シェプキン氏によれば、もう1人の日本人が公式な外交関係が樹立された後、最初の露日関係の重要な橋渡し役になったという。
シェプキン氏:1855年2月7日、ロシアと日本の間で、日露和親条約が結ばれました。交渉において通訳を務めたのが、ヨシフ・ゴシケヴィチ。中国語に精通し、北京伝道団のメンバーだった人物です。彼の船が大破し、下田で代替船の建造を待つ間、彼に日本語を教えたのが増田耕斎(橘耕斎)でした。しかしあるとき、彼は、ロシアの極秘情報を扱っているとして政府に疑われるのではないかと危惧し、ロシアに連れて行ってほしいと頼みました。ロシアに渡った彼は、日本の古い名前をとって、ウラジーミル・ヤマトフと名乗りました。彼はロシア外務省に入省し、アジア部の通訳として配属され、サンクトペテルブルク大学で最初の日本語の教師となりました。1868年に日本で明治天皇が即位すると、有名な政治家である岩倉具視率いる使節団がロシアを訪れました。この代表団の受け入れを行ったのがヤマトフ(増田耕斎)です。この人物がロシアに関する貴重な専門家であることを理解した岩倉具視は、増田になんとか日本に帰国してほしいと懇願し、説得するのに成功しました。1874年、増田は日本に帰国し、それは、すでに外交関係が樹立されていた露日関係における新たな時代の幕開けとなりました。そしてロシアを訪れる日本人―外交官、防衛専門家、貿易商、学生、旅行者―の数は数倍に増えました。多くの人が驚くべき運命を辿りましたが、これはまた別の話です。
【解説】下田条約は日露の永遠平和と友好の証し 反露デモの根拠にあらず
なぜこうした研究を行おうと思ったのか、またこのテーマはすでに研究し尽くされたと考えているかとの「スプートニク」の問いに、ワシーリー・シェプキン氏は次のように述べている。
「イルクーツクの大学で学んでいるとき、この都市での日本語学習の伝統について、そして18世紀に日本語を教えていた日本人の話を聞きました。しかし、このテーマに本格的に興味を持ったのは、ペテルブルクに来て、東洋古文書研究所で、『流れと共に去った』日本人の遺産について研究している日本人の学者と出会ったときです。日本人に関する資料はかなりたくさんあり、大部分は研究されていますが、まだすべてではありません。また、まだ出版されていないものもあります。不思議なことに、19世紀初頭から半ばにかけての日本人の歴史、露日関係の樹立への彼らの偉業と貢献についてもまだそれほど研究されていません。ですから、このテーマでなすべきことはまだまだたくさんあると思っています」。
関連記事
【特集】詩人で翻訳家のアレクサンドル・ドーリン:長年、日本のあらゆるジャンルの詩歌を網羅しようと努めてきた
【ルポ】モスクワで祝われた日本の「文化の日」:日本文化と触れ合える日を心待ちにしていた観客たち
コメント