【特集】詩人で翻訳家のアレクサンドル・ドーリン:長年、日本のあらゆるジャンルの詩歌を網羅しようと努めてきた

© 写真 : Akita International Haiku Networkアレクサンドル・ドーリン氏
アレクサンドル・ドーリン氏 - Sputnik 日本, 1920, 14.02.2023
サイン
日本の詩歌を扱うプロの翻訳家はそれほど多くはないものの、世界の120カ国以上に俳句・短歌協会がある。2022年末、ロシアの文学界で大々的な出来事があった。出版社「ナウカ」から、8巻から成る「アレクサンドル・ドーリン翻訳による日本の詩歌大文庫」が出版されたのである。この本には、中世前期から20世紀までのあらゆるジャンルの詩歌およそ500作が収められている。この大文庫は、有名なロシアの日本研究者で、詩人で、作家で、文学評論家で、70冊以上の著作の執筆と翻訳をおこなっているアレクサンドル・ドーリンの長年にわたる活動の成果である。
ロシアの日本学においても、世界の日本学においても、類を見ないこの本は、日本の文化をロシアで、またロシア文化を日本で普及しているショディエフ国際基金の支援の下、編纂された。およそ30年にわたって日本に滞在したドーリン教授(1949年生まれ)は、日本の有名大学で、ロシア文学と日本文学、比較文化論を教えながら、現在はロシアの高等経済学院の教授でもある。さらに、作家同盟、国際日本研究協会のメンバーであり、正岡子規賞の受賞者でもあり、また「文化への多大な貢献」により日本翻訳家協会特別賞を受賞している。「スプートニク」はそんなアレクサンドル・ドーリン氏へのロング・インタビューを行った。
© 写真 : Aleksandr Dolin8巻
Книга Александра Долина - Sputnik 日本, 1920, 14.02.2023
8巻

アカデミー会員コンラドの祝福の言葉から始まった道

スプートニク:日本の詩歌の翻訳というものが、あなたの人生における重要なものになったわけですが、日本の詩歌を訳すようになったきっかけについて教えてください。
ドーリン氏:幼少時代から本をたくさん読み、詩を書き、外国語の勉強をしていました。日本や日本語については、ぼんやりとしたイメージしかありませんでしたが、学校を卒業する直前に、祖父がソ連の東洋学の重鎮であるアカデミー会員のニコライ・コンラッドを紹介してくれたんです。2人は長年の知り合いでした。1938年にコンラド夫妻は(日本のスパイとして)逮捕され、まだ幼かった姪は封鎖下のレニングラードに1人残されました。わたしの祖父でわたしと同じ名のアレクサンドル・ドーリン(わたしの名前は祖父の名をとってつけられました)は、中央軍事病院の主任医師で、彼女を救い、後に家族の元に帰したのです。コンラド氏との出会いが事実上、わたしの運命の方向性を決定づけました。とはいえ、言語の難しさや日本の文明の異質さに対する不安は常にわたしに付き纏っていたわけですが。しかし結局、わたしはやってみることにしました。モスクワ大学附属の東洋言語大学(現在のアジア・アフリカ諸国大学)のすべての試験を優秀な成績で合格し、コンラド氏から祝福され、わたしは日本語のグループに入ることになりました。そのことは今も後悔していません。

当時ソ連では手に入らなかった漢字辞典

スプートニク:日本語を学習する上で、もっとも難しかったことはなんですか。
ドーリン氏:1966年、わたしが東洋言語大学に入学したとき、学生たちは、初めてゴロヴニン編纂の日本語の教科書を使えることになりました。しかし、辞書を買うことはほぼ不可能でした。当時は、内容的にも量的にもきわめて不完全な古い音声学事典―露和と和露―が大学の図書館に1冊収蔵されているかどうかという状況でした。その隣には、1950年代に出版され、その時点ですでに希少本となっていた、さらに不完全な漢字辞典が並んでいました。わたしたちが3年生になったとき、ようやく、コンラド編纂の2巻から成る大辞典を使って勉強できるようになりました。
加えて、ロジェツキーとザルビンの露和辞典も出版されました。しかし、ロシアには、ロシアで出版された完全な漢字辞典は今も存在しません。わたしの最初の漢字辞典は、知り合いの日本人が日本から送ってくれたものでした。また、同級生が1970年の万国博覧会に行ったとき、お土産にネルソン大漢字辞典を買ってきてくれたのですが、今もわたしはそれを使っています。
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40歳で初めて日本へ

スプートニク:大学卒業後は何をされていたのですか。
ドーリン氏:大学卒業後は、ロシア科学アカデミーの東洋学研究所に20年間勤務しました。東洋学研究所では日本共産党の選挙のモニタリングから書誌の作成まで、多くのことをこなしました。しかし、時とともに、わたしの関心は日本文学に集中するようになりました。大学では、イリーナ・ヨッフェが日本文学の授業を担当していましたが、彼女は、わたしが日本のロマン主義の詩歌をテーマにした論文を書いた際の指導教官でもありました。1970年代末、彼女はわたしに、彼女がそのとき翻訳しようとしていた「平家物語」の一部を詩にしてみないかと言いました。
またその後、2人で、後深草院二条の「とはずがたり」などの本を翻訳しました。後に、イリーナ・ヨッフェは自身が持っていた大量の日本の書物をわたしに残してくれました。それまで、国際交流基金やその他の団体から少なからぬ招待を受けていましたが、実際に日本に行くことはなかなか叶いませんでした。日本に行くことができたのは1989年になってから、わたしが40歳のときでした。

「拳法―東アジアの武術」がドイツでベストセラーに

スプートニク:あなたが書かれた日本の武術に関する本は何十年にもわたって、大きな需要を誇っています。あの本を書こうと思われたきっかけはなんだったのでしょうか。
ドーリン氏:1970年代、わたしは武道の練習に夢中でした。しかし、その頃、東洋の武術に関する書物を手に入れることはほとんど不可能でした。そのような本は、オリンピック競技である柔道以外の武術そのものと同様、ソ連では異なる思想を持つものとして禁止されていたのです。それで、自分で書くしかないと思ったのです。大きな図書館で少しずつ情報を収集する必要がありましたが、日本を含め、国外から得たものもありました。
結果、数年かけて、「拳法―武術の伝統」という大作を書き上げることができました。その中では、インドから中国や日本の歴史、哲学、仏教学、あらゆる秘教、医療、武術に関する問題を取り上げています。本は、東洋文学の出版社である「ナウカ」の編集部の本棚に8年ほど置かれたままでしたが、ある東ドイツの出版社が関心を示してくれ、1990年11月、ベルリンの壁の崩壊と同時に、ドイツ語の翻訳が出版されました。そうして本はドイツ語圏の市場に出ることとなり、そこでほぼ20年にわたってベストセラーとなりました。その後ようやくソ連でも、「拳法―武術の伝統」というタイトルで出版されました。ただし、内容は大幅にカットされ、出版部数は20万部でした。
しかしその後、本は繰り返し、さまざまな出版社から大規模な部数で出版され、数年間にわたって、ロシア人が武術の知識を得るための唯一の本となりました。ロシア語で、完全版が出版されたのは2008年になってからのことです。この本のおかげで、わたしは日本に住みながら、ロシア武術連盟のコンサルタントになることができました。

あっという間に消えた日本でのカルチャーショック

スプートニク:初めて日本に行かれたときの印象はどのようなものでしたか?
ドーリン氏:1989年に初めて京都に研修に行ったときは、もちろんカルチャーショックを受けました。日本はわたしに強烈な印象を与えました。
現在、日本を訪れる人々はそれほどのショックは受けることはないでしょう。なぜなら、今のモスクワは、生活レベルでも、それ以外の面でも、日本の大都市とそう変わらない、あるいはそれを上回っていることもあるからです。しかし当時はまったく違っていました。
しかし、そのショックはあっという間に消え去りました。
第一に、日本研究者という意味で十分に準備ができた状態で日本に行きましたし、モスクワとタシケントの国際映画祭で長期にわたって映画の翻訳の仕事をし、日本語の会話という面では多くの経験をしていたからです。
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ペレストロイカをテーマにした本が日本で人気に

スプートニク:日本でも文学の仕事を続けられたのですか?
ドーリン氏:日本での1年間の研修で、わたしは「古今和歌集」の翻訳をしました。この翻訳は1995年にロシアで出版されました。また日本で、ロシアについての社会的・心理的特徴についての記事の執筆に取りかかりました。
外国では、ペレストロイカブームで、日本の人々も大きな関心を持って、その行方を見守っていました。わたしの記事は、雑誌「中央公論」に数ヶ月にわたり掲載され、読者からの大きな反響を呼び、メディアにも大きく取り上げられました。これらの記事を集めて、統計や写真を交えた「新生」ロシアのさまざまな生活に関する本の第1巻、第2巻が出版されました。1992年に東京外国語大学に招かれ、そこで12年間ロシア文学と比較文学論を教えることになったのは、もしかするとこの本のおかげかもしれません。

大自然の中での隠遁生活は、世界の詩的な理解を促進する

スプートニク:しかし、結局、あなたにとってもっとも興味深かったのは詩歌だったのでしょうか。
ドーリン氏:2004年に、ある事情により、わたしは職場を移りました。創立されたばかりの秋田国際教養大学で日本人学生と外国人留学生のための日本文学の授業と比較文化論、世界文明、世界史の授業をしてほしいと依頼されたのです。
この素晴らしい大学には、13年勤めました。家族は東京に残りました。娘がロシア大使館付属の学校に通っていたからです。わたしは週末ごとに家族の元に帰っていました。
ほとんどの時期、わたしは森林の中にある教授用の住居に住み、瞑想をしたり、執筆活動に没頭していました。もちろん、大学の授業をしながらでしたが、生活スタイルとしては、ほぼ隠遁的だったと言えます。そこでわたしは、「新日本詩歌史」の執筆を終え、その著書はロシア語と英語で出版されました。
本質としてこれは、銀の時代―これはわたしが学術的に用いた専門用語ですが―の日本の詩歌の歴史です。
英語版の3巻のうちの1つにも、「The Silver Age of Japanese」(日本詩歌の銀の時代)というタイトルがついています。次の巻は、「The Bronze Age of Japanese Poetry」(日本詩歌の銅の時代)、そして最後の巻は「The Fading Golden Age of Japanese Poetry」(日本詩歌の衰退の黄金時代)となっています。
この本の中では、伝統的な短歌や俳句を紹介しています。もっとも、これらの詩歌は今や世界でも広く知られているものの、元来の「日本の本質」を失いつつあります。
日本の詩歌に関する著書としては、全集、アンソロジー、研究書や論文など合わせて60冊あり、それは主にロシア語で書かれています。
しかし、英語のものもあれば、日本語の原文にロシア語と英語の翻訳が添えられた3ヶ国語のものもあります。
秋田では、自作の詩もたくさん書き、それらは別々の作品集として出版されましたが、いくつかの作品は、8巻ものの日本詩歌大文庫の追録として収められています。小説も、ペンネームで出版されました。

翻訳の鍵はリズムの絵に

スプートニク:詩の翻訳と小説の翻訳に違いはありますか?どんなコツがありますか?
ドーリン氏:ロシアだけでなく、西側のどの国の翻訳家も、日本の詩歌、とりわけ短歌の定型の翻訳に対する万能なやり方を見つけ、そのシステムを作り上げることはできていないと思います。というのも、短歌や俳句というものは、一見、簡素で素朴な小作に感じられるからです。翻訳の中には、ややおかしなもの、退屈なもの、または散文的なものだったり、逆に詩に似たものなどがあります。時間をかけて、わたしは伝統的なジャンルである短歌や俳句の翻訳システムを作り上げました。大切なことは、然るべきリズムを生み出し、独特の「雰囲気をもつ」イントネーションを伝えることです。
短歌というのは、ほぼ1500年前からその音数律、つまり5-7-5の文字数を繰り返す定型詩です。
どうやって短歌の訳し方を学ぶことができますかと訊かれたとき、わたしは、短歌をできるだけたくさん読み、短歌の作者が書いたように訳すことですと答えています。日本人は幼い頃からこのリズムを吸収し、簡単にこのリズムで物事を考え、即興で歌を詠むことができたのです。短歌というものは、熟考を重ねて、何度も書き直して翻訳するものではありません。まず短歌をよく読み、頭の中でそのリズムを絵にし、それを素早く言葉にするのです。
概して、俳句の翻訳も同様です。
原文の中にあるのと同じようなリズムの絵を描き、もしそれを翻訳できない場合は、それに合致するような別のものを考えなければなりません。

ほぼすべてのジャンルを網羅した「日本詩歌大文庫」

スプートニク:今回の8巻もののアンソロジーには、どのようなジャンルの詩歌が収められているのですか?
ドーリン氏:古代から現代までのあらゆるジャンルの日本詩歌を紹介しようと努めました。たとえば、かなり前に見つけた新しい形式の詩なども入っています。「平家物語」は、韻文で書かれた章がいくつもある叙事詩です。西側では、武士たちの叙事詩の翻訳は、基本的に散文の形で行われています。しかしわたしは「平家物語」を韻を踏ませて翻訳しました。その方がずっと効果的だと感じたからです。
アンソロジーには、中国の伝統的な詩である漢詩の翻訳も収められています。漢詩は日本詩歌の中の巨大な層を成すもので、第二次世界大戦後、中国語が教育課程から除外されるまで、読まれていました。
禅僧が書いた非常に興味深い詩歌があります。たとえば、18世紀初頭から19世紀にかけての有名な歌人、大愚良寛の作品に関しては、わたしは芭蕉よりも素晴らしいと評価しています。良寛は短歌、俳句、漢詩を書きましたが、どれも天才的です。
アンソロジーには、面白おかしい詩も収められています。これは、特定の地方の出来事やダジャレ、語呂合わせなどを基礎としたもので、かなり難しいものです。新体詩、近代詩という新しい形式の詩も、韻を踏んで訳しています。
日本語の音声学的な特性により、日本語に韻というものはありませんが、ロマン主義派、象徴主義派、モダニズムの詩人たちはこれを残念に思い、諧音がないことを補おうとしました。
わたしも、ときに、その詩歌が、ロシア人の理解における完全な韻律として、ロシア語でより調和の取れたものにするために韻を踏むことがあります。「大文庫」の半分は、近代と現代の詩歌となっています。3巻が銀の時代の作品、そして最後の8巻目は20世紀後半の作品です。ただ、収録するのは20世紀の作品までに留め、21世紀のものは扱わないことにしました。それは、このハイパーアンソロジーを、十分に古典と呼べる本物にしたかったからです。
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国外の読者のための注釈を書く意味

スプートニク:アンソロジーには注釈、引用元が多く記されています。これは外国の読者が、日本についてすべてを理解することが難しいからでしょうか?
ドーリン氏:日本の中世の詩歌は双方向性を持つものであり、作者同様、日本と中国の詩歌や哲学に関する書物を熱心に読んだ、文学に詳しい読者を対象としたものです。
詩歌は暗示的なものであり、読者がさっと感じ取ることのできる仄めかしが含まれています。
そのために基礎的な教育は必要ありません。なぜなら自然のイメージはそれがなくても簡単に理解できるものだからです。
外国の読者もそのような詩は説明がなくても理解できます。しかし、外国の読者には、注釈がなければ理解しにくい詩歌もあります。たとえば、中国史や日本史における象徴的な名前、あるいは詩歌や絵画で讃えられている日本の代表的な場所などです。
たとえば、詩歌の中に住之江の岸や住之江の松に関する言葉を聞くと、日本人であればすぐにさまざまな想像が浮かびますが、外国人にはそれがありません。日本の詩歌はすべて、過去から累積された作られた基礎の上に成り立っています。つまり、どの世代も過去の経験を理解し、それを捨てたり、忘れたりしないのです。たとえば、本歌取りという和歌の作成技法があります。これは有名な古歌の句を自作に取り入れて作歌を行う方法です。この手法は100%成功しました。なぜなら読者はそれがどの歌から取られたものかを理解したからです。そして、読者の目の前には、似たような古歌の詩的イメージが連想されます。
しかし、もちろん、それも、西側の読者、ロシアの読者にはありません。そこで、8巻もののこの大文庫を執筆する際、できる限り、注釈をつけ、参考文献を示しました。
16世紀の歌人が12世紀の歌人の句を取り上げているとすると、注釈に、これは藤原定家の歌を取り入れたものだと書き示しています。ただし、現代の日本の読者も同様だと勘違いしてはいけません。中世の教育ある読者の頭に浮かぶ複雑な連想は、きわめて稀な例外を除いて、古典の教育がない現代の読者には浮かんできません。
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日本人の間に今も残るロシアの古典文学への尊敬の念

スプートニク:露日関係がいかに急変しようと、ロシア人は日本文化に対して大きな関心を持ち続けています。これに関して、日本人はどうでしょうか?
ドーリン氏:日本におけるロシア文化に対する関心は、残念ながら失われつつあると、わたしは思います。
ロシア文化に対する関心は、明治時代から何十年にもわたって続いてきました。しかし、ソ連政府、そして、後のロシア政府は、明らかに、この伝統を維持することに十分な注意を払いませんでした。最近、日本は非友好国のリストに含められ、それが日本人の集団意識に良くない印象を与えました。
ロシアの古典文化に対する尊敬の念は、概して失われていません。しかし、今から30年前にあったようなロシアに対する友好的な態度というのは今はもうないと思います。普通の日本人のほとんどは、ロシアに対し、控えめに言って、警戒心を持っています。もっとも、在モスクワ日本大使館では、わたしの日本詩歌大文庫の出版を歓迎していただき、この分野における今後の順調な活動継続を祈念していただきました。
ですから、今後も尽力していきたいと思います。
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