この「命のビザ」は、ソ連経由で日本、またナチス・ドイツの手が及ばない国へ行くチャンスを与えた。ユネスコの「記憶遺産」に申請する資料の中には、杉原氏の出身地である岐阜県八百津(やおつ)町が所有する自筆のビザの記載があるパスポートや、外務省が所蔵する査証発給リスト、また外務省とのやり取りを示す公電などがある。日本のイニシアチブは、ロシア、リトアニア、そしてイスラエルが支持している。
もちろん杉原氏が行った独自の判断は、当時の日本外務省の了承を得ることは出来なかった。しかし杉原氏は、ビザを発給せずにはいられなかった。杉原氏は死の前年の1985年、自身の行為について、次のように語っている-
「難民が目に大粒の涙をうかべて懇願してくるのを見れば、実際に誰でも哀れみを感じるでしょう。日本政府は統一した見解を持っていないようだったので、自分で行動することに決めました。あとで確実に誰かからしかられるだろうとは思っていましたが、自分ではこれが正しいことだろうと思いました。人々の命を救うのに悪いことは何もないはずですから」。
ロシア・ユダヤ会議のユーリー・カンネル理事は、「杉原氏の貢献をユダヤ人のためのものだけと考えるのは正しくない」との考えを表し、次のように語っている-
「杉原氏は、諸国民の中の正義の人だと認められている。彼は、イスラエルによって認められるだけでは足りない。杉原氏が信仰していた日本ハリストス正教会は、杉原氏を聖人として崇めている。杉原氏は、最も困難な時代に自分の命を危険にさらして、他の人々を救ったのだ」。
杉原氏は若い頃からロシアと縁があった。1919年、杉原氏は日本外務省の官費留学生として、当時ロシアからの移民がたくさんいたハルビンに派遣され、ロシア語を学んだ。1924年、杉原氏は在ハルビン日本総領事館で勤務し、白衛軍兵士の娘だったロシア人のクラウディア・アポロノワと結婚、正教会に入信した。そして26歳だった1926年、杉原氏はソ連経済に関する大観を執筆し、1930年代には、ソ連との北満洲鉄道の売却交渉を担当した。そして外務省を退職した後の1960-1970年代、杉原氏は長年にわたってソ連で暮らし、日本の貿易会社や団体の代表や顧問を務めた。
「モスクワに杉原さんのプレートが設置されたら、日本人は皆、『ウクライナ』ホテルに宿泊しようとするでしょう。私はそうなると確信しています」。
いつ杉原氏のプレートが「ウクライナ」ホテルに設置されるのかはまだ不明。モスクワ市当局と合意する必要があるからだ。杉原氏の資料がユネスコの「記憶遺産」に登録されるか否かが決まるのは2017年。私たちは、「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原氏の人道的行為が、長い年月の後に世の中で広く認知されたように、このたび杉原氏の資料のユネスコ「記憶遺産」への登録が決まることを願い、それに期待する。なお日本では2015年12月5日、唐沢寿明氏主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」が公開される。