これは非常に緊迫したテーマであり、両国民を騒がせている。ここで主な障害となっているが南クリル諸島であるのは周知のとおりだ。特に1956年のソ日共同宣言によると平和条約締結後にソ連が日本に自由意志による譲渡を約束したハボマイとシコタンだ。実際のところ、全ての問題はこの点に尽きる。だが私の考えでは、状況ははるかに複雑、かつ興味深い。
2つ目に、戦時中と戦争終結直後に、反ヒトラー同盟の全ての同盟国が敵国と一緒に平和条約に調印した。その典型的な例は、1947年2月10日に締結されたルーマニア(ドイツの同盟国だった)とのパリ条約だ。同条約には、ソ連、英国、米国、その他の国が調印した。条約では、ルーマニアが遵守しなければならないすべての規則と原則が定められた。1951年9月8日にサンフランシスコで調印された日本との平和条約は、反ヒトラー同盟の名において締結された典型的な平和条約と大きく異なっている。サンフランシスコ平和条約第23条には、米国、オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、英国という参加国リストが記載されている。同リストには戦後誕生した2つの国が含まれている。それはインドネシアとパキスタンだ。しかし!日本との戦争の主な参加国であるソ連も中国もリストに含まれていない。
3つ目は、サンフランシスコ平和条約第2条には、クリル諸島と南サハリンに対する要求を日本が放棄する義務が含まれている。同条約は調印され、有効であるため、日本は遵守しなければならない。一方で米国は、ソ連の利益を制限しようと試みた。米上院は条約批准の際に、条約は1941年12月7日の時点で日本に属した領土に対する要求を認めず、1945年2月11日のヤルタ協定(南サハリンの返還とクリル諸島の引き渡しの要求)における日本に対するソ連の有利な状況も認めないとする条項を承認したのだ。すなわち米国は、ソ連を連合国のリストから削除しただけでなく、日本との戦争にソ連が加わる条件についての自らの約束を破ろうとしたのだ。しかし米国の立場は言葉の上だけで、サンフランシスコ平和条約の本文を変更することもなければ、軍事力でクリルとサハリンを日本に返還させるリスクも冒さなかった。
概してサンフランシスコ平和条約は、1950年代初頭に米国を網羅した反共産主義ヒステリーの精神にみなぎっている。条約は、日本との長期にわたる戦争で苦しみを負った中国と、大陸で主な日本軍を撃滅したソ連に対して明らかに不当だ。一方で、あらゆる欠点がある中で、サンフランシスコ平和条約は、それらの条件、あるいは基本的にそれらの条件で、2国間平和条約を締結する権利を日本に与えている。そこで思ってもみないことが起こる可能性がある。
「この規定は、1つあるいは2つ以上の連合国を一方とし、日本を他方として双方の間に締結された、もしくは締結される2国間あるいは多数国間の協定に基づく、またはその結果としての外国軍の日本の領土における駐留あるいは駐屯を妨げるものではない。」
これは、日本が平和条約調印の事実としてロシアを連合国と認めた時に、例えば北海道などにロシアの軍事基地を設立することに関する2国間協定を締結するための道が開かれることを意味している。
もしかしたらこれはファンタジーにすぎないかもしれない。しかしロシアと日本の平和条約をめぐる具体的な交渉は非常に興味深いものになると思われる。詳細を今判断するのは難しい。だが同文書への調印は、ロシアの政治的重みが増し、同時に米国の日本への影響力が低下することを確実に意味するだろう。
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