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モスクワ国立大学政治学部のヴィクトル・トルシコフ教授は、ロシア革命から100年を記念したある会議で、次のような見解を表した-
「20世紀初頭に中位の発展水準の資本主義国に属していたロシアは、資本主義の鎖の中で最も弱い環だった。ロシアは矛盾のからみあいだったからだ。特に激しかったのは、経済および政治の両面で優位にあった封建制度の名残に関連する矛盾だった。国は絶対君主制だったが、社会では階級的性質が支配していた。さらに第一次世界大戦がロシアを疲弊させ、すべての問題を悪化させた。」
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*編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。
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*編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。
ロシア科学アカデミー世界史研究所のアレクサンドル・チュバリヤン氏は、革命は大規模な「兄弟殺し」の戦争を引き起こし社会を分裂させたため、現代社会は革命に否定的だとの確信を示し、次のような見解を表している-
「今日ロシア革命に対する統一した見解に達するのは難しい。なぜならロシアの歴史の中にはいろいろに解釈できる統治者や時期がたくさんあったからだ。未だにイワン雷帝についてさえ統一した見解はない。しかし社会は異なる見解が存在する権利を認めなければならない。コルチャク、レーニン、またはトロツキーに好意的な人々が互いに衝突しないようにし、他人が自分の意見を持つ権利を認めることが重要だ。」
ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所のユーリー・ペトロフ所長は通信社スプートニクのインタビューで、1917年の革命で得た教訓について次のように語った-
興味深いのは、ロシア革命100周年が他の国々でも注目を浴びていることだ。現在の60代以上の日本人は、若い頃に学生運動が盛んだったこともあり、ある意味でロシア革命やソ連社会主義といったものに郷愁を感じている人が少なくない。これに関連した様々なイベントも開かれている。例えば、宝塚歌劇団は「『神々の土地』~ロマノフたちの黄昏~」というミュージカルを上映している。
日本ではまさにロシア革命の影響下でマルクス主義的サークルが誕生し、その数が次第に増え、1922年の日本共産党の創立につながった。革命の精神は若者を魅了し、1923年に日本共産青年同盟が設立された。革命を逃れて日本に住みついた亡命者もおり、彼らは日本に大きな影響を与えた。特に有名な亡命者の中には、外交官ドミトリー・アブリコソフ、哲学者アレクサンドル・ヴァンノフスキー、医師エヴゲーニー・アクショーノフ、野球選手ヴィクトル・スタルーヒン(日本野球殿堂入りした初の外国人選手)、菓子職人フョードルとヴァレンチンのモロゾフ父子やマカール・ゴンチャロフなどがいる。