ロシア革命から100年... これになぜ日本が関係しているのか? 【写真】

© Sputnik / Alexey Malgavkoオムスクにて、十月革命の98周年にちなみ行進に参加した女性
オムスクにて、十月革命の98周年にちなみ行進に参加した女性 - Sputnik 日本
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ロシアは1917年のロシア革命から100年を迎えた。全ロシア世論調査センターが今年10月に実施した世論調査によると、回答者の46%がロシア革命を肯定的に評価し、同じく46%が否定的な評価を与えていることがわかった。また革命の主な原因は「国民の困難な状況」だったと考える人は45%、「政府当局の弱さ」が原因だったと答えた人は20%、「ロシア人の敵の陰謀」だったとする人は12%。なおロシア人の92%が、いま「国で革命が起こるのを許してはならない」と確信していることがわかった。なぜなら革命は流血と結びついているからだ。

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レーニンの胸像 - Sputnik 日本
1917 それは人類の運命を変えた革命コード【写真】
11月7日は「十月革命記念日」として祝われていた。ただしソ連崩壊後の2005年から国民の祝祭日としては廃止。しかし歴史研究会や一連の政治団体、社会団体は会議や円卓会議を開き、そのイデオロギー的観点からこの日の意味を理解し、評価しようとしている。またロシアには革命について自らの確固とした見解を持つ2つの勢力がある。共産主義者らは1917年の革命を「公正な世界の夜明け」だと考え続けているが、ロシア正教会はふとどきな暴動とみなしている。歴史家や専門家らは、革命前のロシアは矛盾のからみあいだったということで同意しているものの、彼らでさえも、この出来事について統一した見解に達していない。

モスクワ国立大学政治学部のヴィクトル・トルシコフ教授は、ロシア革命から100年を記念したある会議で、次のような見解を表した-

「20世紀初頭に中位の発展水準の資本主義国に属していたロシアは、資本主義の鎖の中で最も弱い環だった。ロシアは矛盾のからみあいだったからだ。特に激しかったのは、経済および政治の両面で優位にあった封建制度の名残に関連する矛盾だった。国は絶対君主制だったが、社会では階級的性質が支配していた。さらに第一次世界大戦がロシアを疲弊させ、すべての問題を悪化させた。」

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*編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。
1917年10月ペトログラード(*) 冬宮殿突入に参加した水兵たち *編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。 - Sputnik 日本
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1917年10月ペトログラード(*) 冬宮殿突入に参加した水兵たち
*編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。
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1917年モスクワ 革命に賛同し「共産主義」のスローガンを掲げた兵士らの隊列が中心部ニコリスク通りを行進 - Sputnik 日本
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1917年モスクワ 革命に賛同し「共産主義」のスローガンを掲げた兵士らの隊列が中心部ニコリスク通りを行進
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1914年8月6日-13日 ポーランドのポロニンに滞在していたウラジーミル・レーニン(1870-1924) - Sputnik 日本
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1914年8月6日-13日 ポーランドのポロニンに滞在していたウラジーミル・レーニン(1870-1924)
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1917年ペトログラード 赤軍部隊 - Sputnik 日本
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1917年ペトログラード 赤軍部隊
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1917年モスクワ 赤の広場の戦車と労働者たち
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1917年ペトログラード スモールヌィ女学院内に設置したレーニンの書斎を護衛する哨兵 - Sputnik 日本
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1917年ペトログラード スモールヌィ女学院内に設置したレーニンの書斎を護衛する哨兵
© Sputnik / メディアバンクへ移行1917年11月7日ペトログラード 臨時政府庁舎だった冬宮殿を10月革命でボリシェビキが占拠した後のゴシック式広間の様子
1917年11月7日ペトログラード 臨時政府庁舎だった冬宮殿を10月革命でボリシェビキが占拠した後のゴシック式広間の様子 - Sputnik 日本
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1917年11月7日ペトログラード 臨時政府庁舎だった冬宮殿を10月革命でボリシェビキが占拠した後のゴシック式広間の様子
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1917年10月ペトログラード(*) 冬宮殿突入に参加した水兵たち
*編集部注:現サンクトペテルブルク。1914年から24年までの呼称。
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1917年モスクワ 革命に賛同し「共産主義」のスローガンを掲げた兵士らの隊列が中心部ニコリスク通りを行進
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1914年8月6日-13日 ポーランドのポロニンに滞在していたウラジーミル・レーニン(1870-1924)
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1917年11月7日ペトログラード 臨時政府庁舎だった冬宮殿を10月革命でボリシェビキが占拠した後のゴシック式広間の様子

ロシア科学アカデミー世界史研究所のアレクサンドル・チュバリヤン氏は、革命は大規模な「兄弟殺し」の戦争を引き起こし社会を分裂させたため、現代社会は革命に否定的だとの確信を示し、次のような見解を表している-

「今日ロシア革命に対する統一した見解に達するのは難しい。なぜならロシアの歴史の中にはいろいろに解釈できる統治者や時期がたくさんあったからだ。未だにイワン雷帝についてさえ統一した見解はない。しかし社会は異なる見解が存在する権利を認めなければならない。コルチャク、レーニン、またはトロツキーに好意的な人々が互いに衝突しないようにし、他人が自分の意見を持つ権利を認めることが重要だ。」

ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所のユーリー・ペトロフ所長は通信社スプートニクのインタビューで、1917年の革命で得た教訓について次のように語った-

ロマノフ王朝最後の皇帝一家 - Sputnik 日本
露日戦争からロシア革命まで
「革命から100年が経過し、我々は革命についてすべてを知っており、そこからあらゆる教訓を得たように思われる。しかし恐らく主な教訓は、再び革命を起こさないことにある。我々の国で大勢の犠牲者を出したこの破壊的な出来事は、内戦を引き起こした。革命とはマルクス主義者たちが述べたような『解放された労働者の祝い』であっただけでなく、ロシアでは国の発展を後退させた『血浴(大量虐殺)』だった。その後、革命のエネルギーはその穴埋めをし、ソ連時代に国は比較的急速に発展した。だが主な教訓は恐らく、人間の命をなおざりにした価値観で未来を構築してはならないということだ。革命から100年が経過した今、革命では『白』と『赤』の両方が犠牲者となり、これは共通の悲劇であり、この出来事が我々の社会に分裂を引き起こさないように扱う必要があるのを覚えておくことが重要だ。革命は我々共通の歴史であり、変わらない歴史的事実として扱われなければならない。」

興味深いのは、ロシア革命100周年が他の国々でも注目を浴びていることだ。現在の60代以上の日本人は、若い頃に学生運動が盛んだったこともあり、ある意味でロシア革命やソ連社会主義といったものに郷愁を感じている人が少なくない。これに関連した様々なイベントも開かれている。例えば、宝塚歌劇団は「『神々の土地』~ロマノフたちの黄昏~」というミュージカルを上映している。

Публикация от norip (@norip0601) Окт 14 2017 в 11:08 PDT

革命から100年:知られざる亡命者が日本に残してくれたもの - Sputnik 日本
革命から100年:知られざる亡命者が日本に残してくれたもの
また、ジェーアイシー旅行センターの伏田昌義社長は、ロシア革命100周年歴史の足跡を訪ねる旅を企画した。「そんな物好きな企画を立てて参加者が集まるのか?」と心配する声もあったが、歴史好きの参加者が18名も集まり、杞憂に終わった。伏田氏は「ツアーではレーニンの遺体を安置したレーニン廟や、冷戦時代の核シェルターを博物館にした冷戦博物館、現代史博物館の特設展示など、通常のパッケージ旅行には入らないような場所を訪問しました。特にソ連時代を思い出す冷戦博物館は、今もって現代につながっているテーマでもあり、一見の価値ありです」と話している。ツアー参加者たちは、社会主義の夢が破れてすっかり現代風になったロシアの姿を目にするとともに、ロシアの著名な歴史学者アナトーリー・コーシキン氏の話を聞き、有意義なひとときを過ごした。

日本ではまさにロシア革命の影響下でマルクス主義的サークルが誕生し、その数が次第に増え、1922年の日本共産党の創立につながった。革命の精神は若者を魅了し、1923年に日本共産青年同盟が設立された。革命を逃れて日本に住みついた亡命者もおり、彼らは日本に大きな影響を与えた。特に有名な亡命者の中には、外交官ドミトリー・アブリコソフ、哲学者アレクサンドル・ヴァンノフスキー、医師エヴゲーニー・アクショーノフ、野球選手ヴィクトル・スタルーヒン(日本野球殿堂入りした初の外国人選手)、菓子職人フョードルとヴァレンチンのモロゾフ父子やマカール・ゴンチャロフなどがいる。

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