福島住民 「事故で意識が変わった」

© AP Photo / David Guttenfelder福島第一
福島第一 - Sputnik 日本
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10月末から11月初めにかけて福島県の住人代表の3人がロシアとベラルーシを訪問した。3人の訪問の目的はチェルノブイリ原発事故の被災者にNPOがどう救済を行ったか、その経験に学ぶことにあった。スプートニクは、3人が事故で放射能に汚染されたノヴォズィブコフ市に向かう前に取材を行い、事故によってどんな教訓を得たか、今自分は安全な生活が送れていると思うかについて、話をうかがった。

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スプートニク:事故の後、あなたの生活はどう変わりましたか?

佐藤龍彦 (楢葉町の元住民): 「私は当時郵便局に勤めていました。たまたまその日は休日でした。そして地震がおきたのです。経験したことの無い様な揺れでした。

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その後、津波がきましたが、うちは幸い津波の被害は受けませんでした。でも原発事故が生じ、地震から1日経過した3月12日、30キロ圏内の住民全員に避難命令がだされました。当時、家には母と娘婿と孫がいました。同じ町の介護施設に勤務の長男は利用者さんを避難させるために昼夜働き、その翌日避難命令がでたので、私は利用者さんも乗せ、孫と連れ合いと一緒に避難をしました。

行き先はバラバラで、うちは町から30キロ離れた場所でした。それから避難所を転々とし、7年数か月にわたる避難生活となってしまいました。いつ帰宅できるか全くわかりません。

放射能は匂いや形もなく、目に見えない。どれだけの危険性か皆目わからない状態で避難し、帰宅を今か今かと待つうちに5か月が経ちました。1日か2日で帰れると思って避難したので、ペットの犬のコロには水とわずかな食べ物を残してきました。1週間が経過し、コロのことが大変心配だったので、親戚の叔母と母と一緒に戻りました。戻るといってもゲートが張ってありその中には入れないので隙間を縫いようやく家に辿り着き、犬と対面しましたが、既に硬直し亡くなっていました。

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角田正志 (福島県教職員組合、組合長):「 放射能の情報は全くありませんでした。教職員組合をしていたので子ども達を放射能から守り、教職員の勤務を適切にする立場から情報を集めつつ、教育委員会と対応、交渉をしていました。

被災地の状況は連絡がつかず、テレビやラジオの情報しかない。町中、交通機関等が停止して、皆さんがどの様に動いたのかはわかりませんでしたが、町には人はほとんど出ませんでした。スーパーには食べ物も水も売っていません。こんなふうに地震による停電、断水で困っていたところに、原発事故が起こりました。

そんな中でしたので、福島県では原発事故よりも、地震に関連したライフライン方に様々な影響があったように思えます。それが次第に、放射能が風によって運ばれたと聞かされ、皆さんが一斉に恐怖を感じたと思います。福島市から避難した方も大勢いましたし、福島市へ避難した方もいました。」

中村孝太郎 (社会民主党 福島県連合副代表):「 私のいる所は福島県の南で原発からは60キロ離れていますが、なぜか放射能の影響は物凄く少なかったです。ですから避難指示は出されず、逆に避難されてくる方を受け入れる側でした。

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約450人がいわき市方面から避難してきて、1か月か50日ほど体育館で生活し、その後は地域にある温泉地に移りました。こんな状況ではお客さんも来ないので、温泉地を避難所の一つにあて、2年くらいは受け入れていたのです。

でも小さなお子様のいる家庭は放射能を心配され、石川から他の地域に避難される方もいました。

次々と避難所が満員になり、石川でも避難民を受け入れました。人だけではなく犬や猫のペットも受け入れました。今我が家にいる犬もその時避難してきたのです。

放射能の不安は今でもありますし、実際、キノコやイノシシも汚染されているので食べられません。そういった状況が今でも続いています。」

スプートニク:東京電力の幹部は福島県の住民に対し、何度も謝罪を行ってきました。住民が舐め続けている辛酸の責任は誰にあると思いますか?

佐藤龍彦:「これだけの大きな事故、被害を出してしまった責任は東京電力と国にあります。その責任を取るならば、被災者の生活保障や健康被害に対する安全性の問題や課題もさることながら、一番の責任の取り方は原発を止めることなんです。これを行い、責任の証を自覚した上で、今度は被災者の生活再建、あるいは労働者の保障問題などの課題に取り組まねばならない。まだまだ多くの問題が残っています。原発を廃止した上で、被災者の救済に着手して欲しい。」

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スプートニク:2020年、日本で開催される東京五輪は、この国が安全面でもう大丈夫だということを象徴するものになると思われますが。

角田正志:「大丈夫か大丈夫でないかという安全確認より、もう危なくないことにしてしまおうとする動きがあります。モニタリングポストをなくす。米の全袋検査を縮小する。帰宅をさせて、もう大丈夫だよという。これが意図的にやられています。

時間が経つと記憶は薄れてきますが、その記憶を更に無くすための働きかけが意図的にされている。

その動きに対し、私達はそれをどう食い止め、忘れないようにするか、今の課題が何であるかを掘り起こし、定置する運動をせねばなりません。これを今も一生懸命に議論をしています。」

スプートニク:ロシアとベラルーシでチェルノブイリげ原発事故後のNGOの経験を可能な限り学ぼうとされていますが、福島原発事故後にあなた方が得た一番大事な経験とは何でしょうか?

佐藤龍彦:「一番変わったのは故郷を再認識したことです。原発の事故で故郷が全てをなくしてしまった。全てを破壊されてしまった。ですから放射能を無くして故郷を取り戻す。この思いが相当強いと思います。」

角田正志:「福島第一原発3号機にプルサーマルが入ることを知った私達は、事故の直前、2010年10月に地元大熊町で反対運動をしましたが、その時はのデモ行進は形式だけのものでした。ですから事故が起きた時に非常に後悔をしました。あの反対運動は何だったんだろう。そこから全く変わり、今は一生懸命に力を注いでいます。」

中村孝太郎:「原発反対運動をやってきましたが、事故が本当に起きる危険性については新聞には書いてなかったんです。ところが実際にこうなってみると、原発は事故を起こすものだ、そうなると日常が奪われるのだということをつくづく認識しました。これからは原発は絶対にだめなんだという気持ちが強くなりました。」

© Sputnik / Lyudmila Saakyan左から、角田正志、中村孝太郎、佐藤龍彦 
左から、角田正志、中村孝太郎、佐藤龍彦  - Sputnik 日本
左から、角田正志、中村孝太郎、佐藤龍彦 

10月30日、代表団がちょうどベラルーシに滞在していた時、業務上過失致死傷罪で強制起訴された、2011年3月11日の原発事故当時の東京電力の幹部らの公判があり、当時、代表取締役会長だった勝俣恒久氏が、福島の住民に対して謝罪をしたというニュースが流れた。勝俣被告は詫びる一方で、大型地震と津波の破壊的力のような自然災害によるこれだけの影響を予測することは困難だったと証言している。一方ですでに2009年の段階で、同社の社員から高さ14メートルの津波が原発に与える影響について報告が行われていた。にもかかわらず、東電は報告の信憑性を疑い、十分な対策をとらなかった。

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