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ロシア、スパシーバ
ロシアを訪問した三人は今月8日、日本サッカー協会で「福島のいま」と題した発表会を行なった。メンバーのひとり青田琉園(るのん)さんは言う。「3月11日に発生した東日本大震災で福島県は大きな被害を受けました。そして震災の影響で発生した福島第一原子力発電所の事故により、私たちの故郷の多くは避難を余儀なくされました。世界中の方々からいただいたご支援とその地域に住む人たちとの絆は大きな力となりました。震災から8年となり、私たちの故郷は少しずつですが確実に復興への歩みを進めています。」
「児童館で祖母の迎えを待っている間に地震にあいました。海の方の学校に通っていたんですけれど、1回目の地震が終わって、2回目の地震が始まる間に少し時間があり、車が迎えに来ました。家に帰らずに、だいたい1週間くらいは祖母の家で寝泊まりしていました。そのとき、父は出張でいなくて、帰ってくるまではとりあえずそこにいました。父は女川の方に行っていて、震災の影響の津波は間近に見たと言っていました。そして私のクラスの男の子の1人は津波で流されてしまいました」
青田さんが震災後に初めて同級生に会ったのは、クラスメイトのお葬式だった。
モスクワ、サンクトペテルブルク、サランスクの三都市で、青田さん、本間さん、杉本さんは、ロシア人に、今何が福島で起こっているのかを話し、自主制作映画「MARCH」を上映した。この映画は南相馬のマーチングバンドについてのドキュメンタリーだ。
青田さんは言う。「大人の人が涙を流しながら話を聞いてくれました。映画も泣きながら見てくれた人とかもいて、終わった時にありがとうございましたと挨拶しながら握手していました。その時にも『がんばってね』とロシア人の皆さんが声をかけてくれたりとか、あと、たぶん日本語がしゃべれない人だったんですけど、『アリガトウ』って日本語で話しかけてくれました。」
「ロシアのイメージが変わった」
杉本さんは、ロシアに行ってからロシアの印象が変わったと話す。「一番思い出に残ったのは、ロシアは良い国だったということです。行く前は少し不安というか、怖いのかなという感じがあったんですけど、行ってみたら会った人はみんな優しかったので、またもう一回行きたいなと思いました。思い出もできたし、とても良い国だと思いました。」
青田さんは、本人が希望していたように、日本に戻っても連絡を取り合うことのできるロシア人の友人を見つけることができた。
いっぽう本間さんは、ロシア人のおもてなしに感激したという。「子ども芸術劇場を訪れたときに、食べ物やダンスでおもてなししてくれたんですけど、僕らも東京オリンピックがあるので、ロシア人みたいなちゃんとしたおもてなしの心を磨きたいなと思いました。」
プロジェクト「トモにロシアへ」は、サッカー日本代表を応援する団体「Smile for Nipponちょんまげ支援隊」代表のちょんまげ隊長ツンさんこと、角田寛和さんによって発案され、在新潟ロシア総領事館のアントン・チギリョフ二等書記官らの協力を得て実現した。