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父の遺産である牧場を「絶対に守る」との思い
実は吉沢さんは福島県出身ではない。生まれ育ったのは千葉県四街道で、東京農業大学を卒業した後、千葉にあった牧場を福島県浪江町に移した父親とともに福島に移り住んだ。
その父親が1980年に不慮の事故により66歳で他界したことから、吉沢さんは兄とともに牧場を運営していくことになった。そこで、「希望の牧場」は、吉沢さんにとって、大切な父親の思い出となった。そして、父親が必死で手にしたその遺産を守っていくことが、吉沢さんにとって重要なことであった。
吉沢さん:「うちの父親は若い頃、中国大陸の満洲という、ソ連国境との近い黒竜江省の開拓団に参加しました。日本が戦争に負けた後、親父はシベリアに抑留されました。3年ほどバイカル湖の辺りで、森林伐採の労働を強いられたんです。抑留生活の中、大勢の日本人の仲間が、寒さと栄養失調で死んだそうです。抑留生活が終わって、父親は千葉県四街道に戦後開拓で入りました。当時の日本は侵略戦争を推し進め、国民の皆をそれに動員して、本当に大変な時期でした。ですので、吉沢の家のルーツというのはそういう歴史にあるというふうに思っています」。
「放射能を浴びるという覚悟をした」: 3.11東日本大震災について
東日本大震災が発生するまで、吉沢さんは東京電力福島第一原発から北西約14キロに位置する牧場で、責任者として330頭の黒毛和牛を育てていた。
吉沢さん:「地震のときは、隣の南相馬市のホームセンターで買い物をしていました。そこで大地震にあって、津波が来るという放送が始まったんです。大変だということで、すぐ牧場の方に戻りました。
1号機に続いて、3月14日には3号機が爆発、15日には2号機炉心損傷が発生し、4号機も爆発した。「すごい音でした」と吉沢さんは回想する。「わたしは牧場で、姉と姉の長男坊の3人で暮らしていたんですけれど、ここにいてはもうダメだということになりまして、2人には千葉県四街道の姉の元の家の方に戻ってもらったんです。僕は1人で牧場に残りました」と吉沢さんは言う。
3月17日、自衛隊による放水作業が始まり、空と地上から放水が行われることになった。そのとき、吉沢さんは望遠鏡で放水の様子を見ていたが、そのときに噴き上がる白い蒸気のようなものを目にしたという。それを見た吉沢さんは、チェルノブイリ原発の事故を思い出し、自衛隊の人たちは恐ろしい死を迎えることになるのだろうと思ったと話す。
その後、吉沢さんはただの傍観者ではいられないと思い、牧場内のタンクに「決死救命、団結!」と書くと、3月18日、抗議行動を起こすため、東京にある東電の本社に向かった。
吉沢さん:「東電本社に乗り込んで、2つのことを言いました。330頭の牛は多分全滅すると。俺は放射能で牧場に帰れないんだと。裁判をやるから、必ずこれを弁償しろと言いました。それから、何で東京電力は第一原発から逃げるんだと。自衛隊が決死の覚悟で対応しているんだから、お前たちも撤退せず事故を収束するべきだと言ったんです。総合の主任の東電の係は泣いて聞いていたんですよ」。
それから1週間ほど車の中で寝泊まりしながら東京に滞在した吉沢さんは、農水省や原子力安全・保安院などを訪ね、自分の主張を訴え続けた。
吉沢さん:「会社の社長、村田さんが浪江町の牛たちを見捨てないようにしようと言い出したんです。社長と2人で牛に餌を届けようということで、3日に1度、トラックに餌を乗っけて、機動隊の作ったバリケードを乗り越え、壊しながら、餌を浪江の牧場に届けていました。牛たちはその餌で生きることができたんです」。
5月12日、政府は福島第一原発20キロ圏内に残された家畜の殺処分を決定した。吉沢さんと社長は、その決定に猛烈に反対した。「僕は自分たちが放射能を浴びるということはわかっていたし、これは覚悟をしていました。牛飼いだから、牛を見捨ててならないというふうに強く思ったんです」と吉沢さんは語る。
「この牛たちは、福島の原発放射能漏れ事故の生きた証拠として生かす意味がある」
吉沢さんによれば、浪江町全体で、少なくとも1,500頭の牛が餓死、または病死し、1,800頭ほどが国によって殺処分された。
現在、浪江町では、吉沢さんの牧場を含め、6カ所で牛の世話が続けられている。吉沢さんを含めて、6人の畜産農家が牛の世話を続けており、被ばくした牛350頭が、国の方針に反する形で生きている。そして、そのうちの3分の2にあたる約230頭が吉沢さんの牧場にいる。
吉沢さん:「この牛は経済的にまったく価値がない。出荷してはいけない、肉にしちゃいけない、移動してもいけない、搬出してもいけない。しかし、なぜ僕たちが、このお金にならない牛を飼うのかというと、非常に議論して考えた末、福島の原発放射能漏れ事故の生きた証拠としてこの牛たちは生かす意味があると考えたからなんです。この牛たちを生かしながら、日本が福島の原発事故の反省に立って、もう原発を止めましょうという時が来るまで頑張ろうという考えなんです」。
吉沢さんの牧場の運営は、支援者らからの寄付金で成り立っている。しかし、震災から10年経って、募金がなかなか集まらないこともある。そんなときは、東京電力からもらった賠償を崩しながら、牛たちのお世話をしていると言う。
自家製街宣車に「カウ・ゴジラ」を乗せ北海道から沖縄へ 海外でも講演
また吉沢さんは牧場の運営以外の活動にも忙しくしている。新型コロナウイルスの感染が拡大するまで、吉沢さんは、日本全国で積極的に講演活動を行っていた。外国で講演をしたこともある。講演の回数は10年間で150回以上になるという。
吉沢さん:「北海道から沖縄まで行って、学校などで演説をずいぶんやりました。東京のハチ公でも。外国から招待されて講演することも増えて、インドやフランスなどに行きました。最後は去年の2月にヨルダンに行って、浪江のお話をしました」。
さらに吉沢さんは、宣伝用の軽ワゴンに車載スピーカーを搭載した「自家製街宣車」で日本全土を移動している。街宣車には、九州大学の知足美加子さんが作ってくれた「カウ・ゴジラ」を同乗させている。この「カウ・ゴジラ」はゴジラのような音を出すそうだ。
カウ・ゴジラとは?! pic.twitter.com/RXuZ4BcvxY
— 希望の牧場・ふくしま (@kibounobokujyou) April 14, 2018
牛でゴジラを作ろうというアイデアは、「シン・ゴジラ」を見て思いついたという。「ゴジラは核実験によって生まれて、牛たちは原発事故によって放射能を浴びながら『カウ・ゴジラ』になったということです」と吉沢さん。
しかし、このような活動を行う中で、吉沢さんは非難されたり、心ない言葉をかけられたりするという。
吉沢さん:「『福島に放射能があるので、来ないでくれ』とか言われることもあります。こういうふうに福島を差別している人もいるんです。でも、東京の皆さんだって、福島の電気で暮らしているんですよ。だから関係ないとか、自分さえ良ければいいとかは、そういうことではないんですよ。この原発事故の後、原発の時代を日本がどうするかを考えてもらいたいんです。原発の時代を乗り越えることが大事なんですよ」。
講演や街宣活動を行う一方、吉沢さんは選挙にも出馬している。2018年に浪江町長選に無所属で立候補したのである。当選したことはないが、吉沢さんは当選することが目標ではないと言い切る。吉沢さんにとっては、できるだけ多くの人々を前に、自分の考えを訴えることができる貴重な場なのである。
吉沢さん:「浪江町の馬場町長はガンのためなくなりました。その姿を見ながら、非常に感じるものがあって、中学校に行って、子どもたちと話をしてきて、考えと行動という意味で、皆さんにそういう人になって欲しいと言いました」。
「浪江は、町でなく村みたいな姿になった」
2017年3月31日、 浪江町では「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示が解除された。吉沢さんの「希望の牧場」はかつての「居住制限区域」に位置している。しかし、浪江町全体において、居住可能な区域はきわめて少ない。
「帰還困難区域」では除染作業が行われているが、吉沢さんによれば、山間部や森林、山林で除染作業を行うのはほとんど不可能だという。
吉沢さん:「つまり、そこには傾斜があったり、木がいっぱい植わっているので作業ができないんです。そういうところはほったらかしで何もできないんです。除染といっても、部分的にしかできないんです。面積も広いため、人も時間もお金もかかります。10年を経て、線量は下がってきましたけれども、完全になくなるのには待つしかないと思います。僕たちはその頃にはもういなくなっちゃうと思います」。
原発事故以前、浪江町の人口は約2万1000人だったが、避難解除後に町に戻った人はわずか5〜6%である。
吉沢さん:「役場の方では1,500に戻ったと言っていますけれど、それは作業関係の人たちを含めるとそういう数になるだけです。実際的な数としては、戻った人は700〜800人ぐらいです。町ではなくて村みたいな姿になったんです」。
吉沢さん:「避難解除になったところでは、いま、復興拠点というものの工事が、国の予算を使って盛んに行われています。浪江町の役場の隣に『道の駅』という観光施設が大規模にできました。また、昨年には、水素製造施設の開所式が行われました。そういうのは本当に浪江町が生まれ変わる姿を象徴していると思います。
ところが、町全体を見ると、住宅解体工事がものすごくあるんですよ。約5000棟の住宅解体工事が町で行われています。みんなもう帰ってこないで、家を片付けて、『はい、さようなら』という現実なんです」。
加えて、吉沢さんによれば、浪江町で、米作りが本格的に始まろうとしている。しかし、吉沢さんはこれは簡単にできるものではないと考えている。
また、昨年の4月から津波で壊滅状態にあった請戸漁港も本格的に再開した。もっとも、吉沢さん曰く、漁船の数は今のところ5分の1ぐらいしかないという。しかし、吉沢さんが何よりも懸念しているのは、南6キロの場所で、福島第一原発が汚染水を海に流すということがしきりに言われていることである。最近、福島県沖で獲れた魚から、日本で定められている基準値の5倍以上の放射性物質が検出されたというニュースもこうした疑問をさらに強めるものとなっている。
「希望の牧場」は何を希望しているのか?
吉沢さん:「浪江町は放射能汚染のひどい場所だったので、私の感じでは絶望的な場所だったんです。だからそういう名前を牧場につけました。
人間として生きるにあたって、希望が一番大事なものだと強く思ってきたんです。『絆』という言葉と『希望』という言葉がキーワードで、その2つを繰り返して使いました。しかし、絆はもう終わったんですよ。だって、浪江町にはもうみんな戻ってこないし、みんな散り散りバラバラです。希望を失った人は避難の人たちの中にもいて、生きている意味がないと非常に精神的に病んでしまうんですよ。だからこそ希望というものが本当に大事なんです」。
しかし、同時に吉沢さんは、「希望」とは、自分自身の手で作り出すものだと強調する。
吉沢さんは日本の人々に対し、福島で起きたことに無関心でいることなく、日本の脱原発に向けた動きに、積極的に参加してくれることを期待しているという。
吉沢さん:「僕は3月6日に67歳になりました。残りの人生は被ばく牛と共に頑張っていきながら、放射能が残っている牧場でこれからも牛のお世話を続けていきます。そしてみんなに『原発を終わりにしよう。原発がなくてもやっていける。日本のエネルギーの未来のために国民がもっと頑張って、世話をしなければ』ということを言い続けていきたいと思っています」。