第二次世界大戦が終わり、75年が過ぎた。この間に数世代が育った。地球の政治地図も変わった。ナチスを相手に大々的に撃ち砕いて勝利をおさめ、全世界を救った、あのソ連もない。それにあの戦争の出来事自体、それに加わった人々にとってさえ、遠い昔のこととなった。だがなぜロシアでは5月9日は一番大事な祝日として祝われ、6月22日には生活の火が消えたように静まり、喉元に何かが閊えたような思いを味わうのだろうか?
戦争は各家庭の歴史に深い傷跡を残したという表現がある。この言葉の裏には、数百万人もの人間の運命、その苦悩、喪失の痛みがある。誇り、真実、そして記憶がある。
私の両親にとって戦争はレニングラード封鎖の恐ろしい苦しみであり、その最中、私の兄、ヴィーチャが2歳で死に、母は奇跡的に生き延びた。父は故郷の町を守るべく志願兵として軍部隊の拠点「ネフスキー・ピャタチョク」で戦い、重傷を負った。そしてこの歳月が遠のくほど、両親と語らい、戦時期の彼らの生活をもっと詳しく知る必要がつのる。だがもう尋ねることはできない。だからこれについて父、母と交わした話は心の中に大切にしまっている。
今の世代が危機的状況に直面したらどうふるまうだろうかと言う問いがよく聞かれる。私の目の前には若い医師、看護婦、特に昨日まで学生だった人々がいる。彼らは今、「レッド・ゾーン」に赴き、人々を救っている。北カフカスでシリアでの国際テロとの闘いで死に直面しながら戦う我々の軍人らは、まだほんの若い青年たちだ! だがその全員が示したのは、大祖国戦争で我々の祖国を守った戦士の勲にもふさわしい姿である。
自己献身、愛国心、生家や自分の家族、祖国への愛。これらの価値観は、今日もロシア社会にとって土台、基軸となっている。これに実に大きく支えられているのが我々の国の主権だ。
今、ロシアには「不滅の連隊」のような、民衆の手による新たな伝統が出現した。これは我々の感謝の記憶であり、世代間を本当の意味でつなぐ行進だ。
この考えは世界の指導者らとの会談で何度も話し合ってきたし、理解も得られた。昨年末、CIS諸国首脳会議で我々は一つのことで一致した。それはナチスに対する勝利は何よりもまずソ連の全国民によって、ソ連邦の全ての共和国の代表らによって勝ち取ったものだという記憶を子孫に手渡す重要性である。その際、戦争前夜の抜き差しならぬ時期についても首脳らと語った。
だからこそ世界大戦へと導いた要因の分析、その込み入った事件、悲劇、勝利、そこから得た教訓について考察を続ける必要性があるのだ。そしてここで原則的に重要なのは公文書、同時代人の証言にのみ依拠すること、イデオロギー的、政治化された憶測を一切排除することである。
再度ここで明白なことを思い起こしてほしい。第二次世界大戦の根深い原因は、多くの点で第一次大戦を総括した結果から発生している。ヴェルサイユ条約はドイツにはあまりにも不当な扱いの象徴となった。これでは国を強盗されたも同然だった。西側の連合国に巨額の賠償金を支払う義務を負い、これがドイツの経済を疲弊させた。
まさに民族が辱めを受けたことがドイツに急進主義や報復主義的な感情を育む温床を形作った。ナチスはこの感情に巧妙に訴えかけ、そのプロパガンダをうち、ドイツを「ヴェルサイユの遺産」から解き放ち、過去の偉大さを復活すると約束し、本質的にはドイツ国民を新たな戦争へ駆り立てた。逆説的なのは、直接的、間接的にもこれを促したのが英国、米国を筆頭とする西側諸国だったということだ。これらの国の財界、産業界はドイツの軍需品工場に極めて積極的に資本を投入した。貴族、政界のエスタブリッシュメントの中には、ドイツで、そしてヨーロッパで勢力を伸長する急進的、極右、民族主義的運動の支持者が少なくなかった。
ヴェルサイユ体制の「世界秩序」は夥しい数の隠れた矛盾と明示的な紛争を生んだ。その土台には、第一次大戦の戦勝国によって勝手に決められた新たな諸国の境界線がある。実際、これらの新たな国々が地図上に出現するや否や、領土論争や互いの要求のぶつけ合いが始まった。
だが国際連盟は戦勝した大国である英仏が取り仕切り、非能率ぶりを見せつけていた。国際連盟でもヨーロッパ大陸でも、同権の集団安全保障システムを構築しようというソ連の再三にわたる呼びかけは無視されていた。中でも東欧協定や太平洋協定は、結ばれていれば暴力の歯止めとなったはずのものだった。
国際連盟はイタリアの起こしたエチオピア戦争、スペイン内乱、日本の中国侵略、オーストリアの併合など世界の各地の紛争も防止することができなかった。ミュンヘン密約(編集部注:ミュンヘン会談)などはヒトラーとムッソリーニの他にも英仏の首脳が参加し、国際連盟の理事会が全面的に承認する形でチェコスロバキアの解体が行われたが、これにポーランドも参加していた。
今日、欧州の政治家らは、特にポーランドの指導者らがこのミュンヘン(会談)については「口をつぐむ」をよしとしている。なぜだろうか? 当時、彼らの国が自らの約束を裏切ったからだけでなく、1938年当時の激動の時代、チェコスロバキアを支持したのがソ連一国だけであったことを思い出したくないからだ。
ソ連は、フランス、チェコスロバキアとの合意も含め、自国の約した国際的な規約に基づいて悲劇を食い止めようとしていた。ポーランドといえば、自国の国益に従い、全力をかけて欧州における集団安全保障システムの構築を妨げていた。
英国も、当時チェコ人、スロバキア人の主たる連合国であったフランスもこの東欧の国に襲い掛かり、八つ裂きにする方を選んだ。単に見捨てたのではない。ナチスの拡張の欲望を東にむけ、ドイツとソ連が衝突し、互いに最後の一滴まで血を流さざるをえなくなるよう照準を絞ったのだ。
西側の「宥和」政策とはまさにこれであった。しかもこれは第三帝国に対してだけでなく、ファシストのイタリアに対しても、軍国主義の日本に対しても同じだった。極東における、そのクライマックスが1939年夏の日英一般協定で、これが日本に中国に手を伸ばす自由を与えた。欧州の列強はドイツとその連合国がどんなに恐ろしい危険を世界にもたらしているかを認めたがらず、自分らは戦争を避けることができるだろうという公算を持っていた。
ミュンヘン密約がソ連に見せたものは、西側諸国はソ連の国益など考えずに安全保障問題を解決するだろうこと、そして好機が訪れれば反ソ連戦線を組みかねないということだった。
ソ連はドイツとの不戦条約を結んだが、欧州諸国の中でこれを締結したのは事実上、ソ連が一番最後の国だった。しかもソ連には2つの戦線で戦争に突き当たりかねない危険が差し迫っていた。1つは西部戦線でドイツと、もう1つの東部ではすでに日本との間にノモンハン事件が起きていた。
スターリンとその取り巻きは多くの非難を受けて当然だ。自国民を敵に回した体制の犯罪についても、大量粛清の恐怖も我々は覚えている。だがソ連の指導者らは、いかにソ連をドイツやその連合国と正面対決させようと他国が仕組んでいるかを見ていたので、その実際の危険を認識しながら、自国の防衛強化のために時間を稼ぐべく行動をとっていた。
当時結ばれた不可侵条約について、今まさに多くの話やロシアに向けたクレームがあげられている。確かにロシアはソ連の継承国である。だがソ連はいわゆるモロトフ=リッベントロップ協定に対しては、法的および道徳上の評価を出している。1989年12月24日の最高会議の決議で秘密の議定書は「ある人間の政権の結んだ協定」と公式的に非難され、「この密約にいかなる責任も負っていないソ連国民の意志を反映していない」ことが明示されている。
いずれにせよ、他の国はナチスと西側の政治家が結んだ合意は振り返らぬようにしている。こうした協力の法的または政治的評価については言うまでもない。そうした暗黙の同意の中には、欧州の活動家らがナチスの野蛮な計画をほぼそれを直に奨励したものまであった。
一連の諸国とナチスと間になんらかの「秘密協定」や合意に付帯した密約が結ばれていたかどうか。これについても我々は知らない。英独間の秘密交渉についての資料は未だに機密が解かれていない。だからこそ我々は、すべての国家に自国の公文書の開示をプロセスを活発化させ、ロシアがここ数年行っているように、戦前、戦後期のこれまでに知られていない文書を公表するよう呼び掛けている。我々は広範に協力し、研究者、歴史学者らの合同調査プロジェクトを行う用意がある。
さて第二次世界大戦を直接的に導いた出来事に戻ろう。チェコスロバキア制圧に成功したヒトラーが今までのような領土要求は行わないと信じる方がナイーブな話だった。今回、ナチスが要求を押し付けた相手は、ついこれまでチェコスロバキア解体に共に加わっていた国、ポーランドだった。しかもその理由となったのはヴェルサイユ条約の遺産、つまりいわゆるダンツィヒ回廊(編集部注 ポーランド回廊)の行方だった。これに続いて起きたのがポーランドの悲劇。これは完全に、英仏ソ軍事協定の締結を邪魔した、当時のポーランド指導部が招いた禍だった。
ポーランド軍の熾烈を極める、勇敢な抵抗にも拘らず、戦争開始から1週間後の1939年9月8日には独軍はワルシャワに迫るところまできていた。ところがポーランドの軍事政治のトップらは9月17日、ルーマニア領へと逃げ込んだ。
1939年8月23日の独ソ不可侵条約に合わせて結ばれた秘密議定書の第2条には、ポーランド国に属する地域における領土的および政治的再編の場合、両国の国益の範囲は「ナレフ川、ヴィスワ川、サン川の腺をおおよその境界線とする」と規定されている。ソ連の影響圏に入っていたのは住民の大半がウクライナ人、ベラルーシ人である領域だけでなく、ブク川 とヴィスワ川に挟まれた、歴史的にはポーランドの土地もそうだった。
英仏に自らの連合国を助ける気はなく、ドイツ国防軍はポーランド全土を迅速に占領し、事実上、ミンスクに通じる道に出られることがはっきりした後、9月17日午前、赤軍の軍事部隊を現在のベラルーシ、ウクライナ、リトアニアの領域に配置する決定が下された。さもなくばソ連のリスクは何倍にも膨れ上がりかねない。なぜならソ連とポーランドの旧国境線はミンスクからわずか数10キロの地点を走っていたからだ。
1939年9月、ソ連指導部はソ連邦の西の国境をさらにワルシャワ付近まで西進させるチャンスを手にしたが、これは行わないという決定が下された。
ドイツ側は新たな現状を規定するよう提案。1939年9月28日、モスクワでリッベントロップとモロトフはドイツ・ソビエト境界友好条約と国境変更についての秘密条項を締結した。この秘密条項は、両国の軍が実際に立っている境界線を現状とし、国境として認めるというものだった。
1939年秋、ソ連は自国の軍事戦略的、防衛上の課題を解決すべく、ラトビア、リトアニア、エストニアの併合プロセスを開始した。これらの国のソ連への編入はそれぞれの国の国民により選ばれた政権の合意の元に協定に調印する形で実現されている。
当時のこの数か月、軍事的政治的闘争、諜報活動は休むことなく続けられていた。ソ連側は、この間に結ばれた形式上の議定書をソ連とドイツの「友好」の証として受け止める根拠は一切ないと知っていた。貿易や技術上の接触をソ連はドイツだけでなく、他の諸国とも活発に持っていた。
ヒトラーがソ連に共同行動をとらせるべく、最後の試みを図ったのは1940年11月、モロトフがベルリンを訪問した時だ。だがモロトフは、1940年9月に英米からの攻撃に備えて結ばれた日独伊三国同盟にソ連を加えるというドイツ側の案に話を専ら限定せよ、というスターリンの指示を厳密に遂行した。11月25日、ソ連指導部はドイツに対して独軍のフィンランドからの撤退、ブルガリアとソ連との相互援助条約などナチスが容認できない条件を公式的に突き付け、これによって意識的に自国が三国同盟に加わる、いかなる可能性も退けた。ソ連のこうした姿勢に遭ったヒトラーは対ソ戦を開始する意図を最終的に固めた。
英国人外交官とソ連側の様々な会談の中で、ソ英関係の改善についても土壌が模索されていたことは指摘しておかねばならない。これらのコンタクトは多くの点で将来の連合国体制と反ヒトラー連合の礎を築いた。責任感にあふれ、先を見通す力のある政治家の中で姿が目立ったのはチャーチルだった。チャーチルはソ連へ反感を持っていたことで知られるが、それでも早くからソ連との協力を支持していた。
第二次世界大戦は前触れもなく急に始まったわけではない。そしてドイツのポーランドへの侵略も突如として起きたわけではない。戦前の出来事の全てが呪われた運命の鎖に集結した。だが、人類の歴史の最大の悲劇を定めてしまった主因は言うまでもなく、国家のエゴイズム、臆病さであり、力を蓄えた侵略者を奨励したこと、政治エリートらに妥協の模索をする心づもりがなかったことだ。
このため、独のリッベントロップ外相の2日間のモスクワ訪問が第二次世界大戦勃発の主たる原因だと断定するのは不誠実なのである。すべての主導的な諸国が程度の差こそあれ戦争開始の罪をそれぞれに負っている。それぞれが、他国を出し抜くことができる、自分に一方的に都合のいい条件を確保できたり、世界全体が禍に進んでいく中で自分だけ外側にいられると勝手に思い込み、修正の効かぬ過ちを犯してしまった。
これについて書くことで、判事役を買って出るつもりも、誰かを非難するつもりもなく、まして国家、民族どうしを衝突させかねない歴史の分野で世界のメディアに新たな対立を起こそうという気もこれっぽっちもない。
過去の事件を秤にかけて評価することは様々な国の権威ある研究者を広く代表するアカデミックな科学が行わねばならないと、私は考えている。我々全員に必要なのは真実と客観性だ。自分の側からは各国の首脳らに対して落ち着いた姿勢で開示的な信頼の対話を常に呼び掛けてきたし、今も呼び掛けている。
こうした文書(決議)は実際的に危険な脅威をもたらすと思う。なぜならこの決議を極めて権威ある機関が採択したからだ。ではその機関がアピールしたものは何か? 悲しいことに、それは戦後の世界秩序の崩壊を意識的に狙った政策だ。この秩序の創設は諸国の名誉と責任の結果であったのに、今日、それらの国の一連の代表らはこの偽りの宣言を是とした。そして、こうすることで彼らは、ニュルンベルグ裁判の出した帰結に対して、1945年の戦勝後、普遍的な国際制度を創設した国際社会の尽力に対して、乱暴を働いたのだ。これに関連して念を押せば、ヨーロッパの統合は、その過程で欧州議会なども含めてふさわしい構造が創設され、統合が可能となったこと自体、過去の教訓を得て、その法的、政治的評価を明確に行ったからに他ならない。だからこのコンセンサスに意識的に疑問を呈する者らは戦後の欧州全体の土台を破壊しているのだ。
世界秩序の土台となる原則を脅かす脅威の他に、ここにはモラル的な側面もある。記憶を侮辱すること。第二次世界大戦終戦75年に関する声明に反ヒトラー同盟の全参加国が列挙され、その中にソ連の国名がない。ナチスと戦った戦士の名誉を称えた記念碑を撤去し、こうした恥ずべき行為を好ましからざるイデオロギーや侵略者との闘争だと偽りのスローガンで正当化する。ネオナチに反対する者らが殺害され、火が放たれる。これは卑怯だ。
確信を持って言えるが、ソ連はドイツに対して予防戦争を始める意図をもっていたという説を確証する公文書は存在していない。確かにソ連の軍事指導部は、有事となれば赤軍は迅速に敵に反撃し、攻撃に転じ、敵の領土で戦争を行うというドクトリンを堅持していた。だがこうした戦略計画は、ドイツに対して先制攻撃をしかける意図があったこと示すものでは一切なかった。
今日、歴史家はソ連及びドイツ司令部の軍事計画、指令文書を読むことができる。ようやく我々にも、実際には事件がどのように発展していったのかがわかってきた。これが明るみになったことから、多くの人がソ連の軍事政治指導部の行為に過ち、誤算があったと推論している。だが、様々な種類の膨大な誤報が入ってくる一方で、ソ連の指導者らはナチスが戦争を準備している実際の情報も受け取っていた。
戦争は突如として始まったわけではない。予想され、それへの準備は行われてきた。だが、ナチスの攻撃は事実、史上かつてなかったほど破壊的だった。1941年6月22日、ソ連は機動力に富み、見事に訓練された世界最強の軍隊と衝突したが、この軍隊にはほぼヨーロッパ全土の産業、経済、軍事ポテンシャルが組していた。この甚大な死をもたらした襲撃に加わっていたのはドイツ国防軍だけではなく、ドイツの衛星国もヨーロッパ大陸の他の多くの国の軍隊も参加していたのだ。
1941年の大敗退でソ連はカタストロフィーの瀬戸際におかれた。1941年夏の時点ですでに敵の戦火に追われ、何百万人もの市民、多くの工場、生産拠点が東への疎開を開始した。後方では最短期間で武器、弾薬の生産体制が整えられ、戦争開始の最初の冬にはすでに戦線に供給され始めた。半年の間にソ連国民は戦線で、そして後方で、今まで不可能とされてきたことを成し遂げたのだ。そしてこの偉大な事業を成し遂げるために、どれだけ多大な努力と自己犠牲が払われたか、認識することは未だに難しい。
無論、この恐ろしい流血の戦時中に恐怖、当惑し、絶望にかられた者もいた。裏切りや脱走もあった。革命や内戦がもとで生まれた残酷な下剋上、ニヒリズム、またボリシェビキが特に政権就任したての最初の数年に植え付けようと躍起になっていた国民の歴史、伝統、信仰を軽視する姿勢も表出してきた。だがソ連国民に共通する気概は違った。みんなが祖国を守り、救おうとしていた。
ナチスの「策略で」は、広大な多民族国家に倒すことなど容易い話だった。急襲をかけ、無慈悲に耐えがたい苦しみを与えれば必然的に民族対立がおき、国はバラバラに裁断できるとナチスは確信していた。ところがナチスのこの計画は戦争の初期の段階から崩れた。ブレスト要塞を最後の血の一滴まで守ったのは30を超える様々な民族の戦士らだった。
今日、どう証明しようとしたところで、ナチスの敗北に決定打となる貢献をしたのはソ連、赤軍なのである。
今日でも、アレクサンドル・トヴァルドフスキーの詩「私はルジェフの近くで殺された…」の飾り気のない詩行が胸を突く。これは大祖国戦争の独ソ戦線の中央部分で戦われた流血の凄まじい会戦で戦った者たちをよんだ詩だ。ルジェフの会戦だけで1941年10月から1943年3月の間に赤軍は負傷兵、行方不明者を含め、134万2888人を失った。公文書から集められた、この恐ろしく悲劇的数値は、完全な数値には程遠い。
「ドイツによりソ連戦線で失われた兵士数、日数は、他の連合国をすべて合わせた数を少なくとも10倍上回っている。また、ソ連戦線にはドイツの戦車の5分の4、ドイツ機の3分の2近くが集まっていた。」全体で反ヒトラー連合の軍事的尽力のうちの75%近くをソ連が相手にして戦った。赤軍は戦時中枢軸国の626師団を「叩きのめした」が、そのうち508は独軍の師団だった。
1942年4月28日にルーズベルトは米国民への演説で「ロシア軍は他の連合国のすべてを合わせたよりも勝る、我々共通の敵の兵力、航空機、戦車、大砲を多く殲滅しつづけている」と述べている。チャーチルは1944年9月27日、スターリンへ宛てた親書にこう書いた。「まさにロシア軍が独軍を壊滅させたのだ」と。
ソ連国民のほぼ2700万人が戦線やドイツの捕虜となって戦死し、飢えや爆撃、ゲットーやナチスの収容所の炉の中で死んでいった。英国で127人に1人、米国は320人に1人が死んだのに比べ、ソ連は国民のほぼ7人に1人を失ったのだ。
勝利に導いたのは共通の敵と戦った全ての国と民族の努力だ。英軍は侵略から祖国を守り、地中海、北アフリカでナチスとその衛星国と戦った。米英の軍がイタリアを解放し、第二戦線を開いた。米国は太平洋で侵略者に強力で決定的な打撃を与えた。中国の国民が払った甚大な犠牲を、日本の軍国主義者を壊滅する上で彼らが演じた大きな役割を我々は忘れない。屈辱の占領を認めず、ナチスからの解放闘争を続けた「戦うフランス」の闘士らを忘れはしまい。
我々はまた、連合国から受け取った支援への謝意も決して忘れまい。連合国は赤軍に弾薬、原料、食糧、軍事機器を保障していた。この支援は非常に大きく、ソ連の軍需生産全体の7%近くに相当していた。
反ヒトラー同盟の核が形成されはじめたのはソ連への攻撃開始直後だった。米英は当然の如く、ヒトラーと戦うソ連を支えた。1943年のテヘラン会談でスターリン、ルーズベルト、チャーチルは大国の同盟を形成し、共通の死の脅威に立ち向かう合同戦略の策定を取り決めた。
ソ連は自らの連合国に対する義務を完全に果たした。赤軍はベラルーシにおける大規模な「バグラチオン」作戦によって、英米のノルマンディー上陸を支援した。 1945年1月、オーデル川までの突破を果たしたソ連兵は、西部戦線、アルデンヌにおけるドイツ国防軍の最後の激しい進撃にとどめを刺した。対独戦の勝利から3か月後、ソ連はヤルタ会談に完全に基づくかたちで日本に宣戦布告し、関東軍は大きな痛手を受けて敗退した。
1944年半ばまでに敵はソ連のほぼ全領域から追い出されていた。だが敵は敵の住処で徹底的に息の根を止めてしまわねばならなかった。そこで赤軍は欧州で解放ミッションを開始。破壊と奴隷化から、ホロコーストの恐怖から全民族を救った。
解放された諸国の飢えの脅威を取り除き、経済、インフラを復興させるためにソ連が行った途方もなく大きな物質的援助も忘れてはならない。例えば1945年5月、オーストリア政府はソ連に対して食糧援助を要請。ソ連指導部が食糧を送ることに合意すると、オーストリア臨時政府のカール・レンナー首相はこの合意を「救済の法…」と位置づけ、「オーストリア人は決して忘れない」と記した。
連合国はナチスの政治犯、軍事犯罪人を裁くために共同で国際軍事法廷を創設。その決定ではジェノサイド、民族や信教の別による粛清、反ユダヤ主義、外国人嫌悪といった人道に対する罪が法的に明確に規定された。ニュルンベルグ裁判では直接的に明白に様々な種類のナチスの共犯者、対敵協力者も裁かれた。
今日においても我々の立場は変わらない。ナチス共犯者の犯罪行為は正当化の余地はなく、その刑期に終わりはない。このため、一連の諸国でナチスに協力して身を汚した人間が突然、第2次世界大戦の功労軍人と同列に並べられていることには当惑する。解放者と占領者を同等に置くことは許されないと私は思う。
当時、ソ連、米国、英国の指導者らの前に立っていたのは歴史を決定する課題だったと言っても過言ではない。スターリン、ルーズベルト、チャーチはそれぞれイデオロギー、国家の目指すもの、利益、文化も異なる国を代表していたが、途方もない政治的意思を発揮し、矛盾の上に立ち上がって世界の真の利益を第一に据えた。その結果、彼らは合意し、それによって人類全体が勝利する決定にこぎつけることができた。
テヘラン、ヤルタ、サンフランシスコ、ポツダムの一連の会議が築いた基礎のおかげで、極めて激しい矛盾があるにもかかわらず、すでに75年、世界は地球規模の戦争を起こさずにすんでいる。
20世紀は全体的かつ包括的な国際紛争をもたらしたが、1945年、この舞台にさらに、物理的に地球を破壊することのできる原子爆弾が出現した。言い換えれば力の手段で論争の決着を図るのは途方もなく危険となったのだ。第二次世界大戦の勝利者らはこれを理解していた。理解し、人類に対する自分の責任を認識していた。
国際連盟の痛ましい経験が教訓にされたのは1945年。国際連合安全保障理事会の機構は平和を最大限具体的かつ有効に保証するよう構築された。こうして生まれたのが安全保障理事会の常任理事国制であり、常任理事国らの特権と責任としての拒否権だった。
新たなグローバルな対立は第二次世界大戦が終了後、ほぼすぐに始まり、時がたつにつれ、極めて熾烈な性格を帯びた。そして冷戦が第三次世界大戦に発展しなかったことが、ビックスリーの結んだ合意が有効であったことをしっかりと確証づけた。
無論、今日、国際連合のシステムが緊張を強いられており、十分に有効には機能していないことは我々も知っている。だが国連はその土台となる機能を依然として果たし続けている。国連安全保障理事会の活動原則とは、大きな戦争ないしはグローバルな紛争を予防する稀有なメカニズムである。
ここ数年、拒否権廃止を呼びかける声が割合頻繁に聞かれる。安全保障理事会の常任理事国から特殊な可能性を取り上げることは実際、無責任だ。なぜならそうした事態にでもなれば、国際連合は本質的にはあの国際連盟に、空疎な会話のための会議の場に変わってしまうからだ。
連合国の政治家の賢明さ、先を見通す能力のおかげで、こうした客観的な、いつの時代も世界の発展にはつきものであるライバル競争の極端な表出から守るシステムの創設に成功した。我々の責務は、政治的責任を負う者全て、なによりもまず第二次大戦の戦勝大国を代表する者らの負う責務は、このシステムが維持され、改善されるよう保証することである。今日、1945年の時と同じように、政治的意思を発揮し、共に未来を討議することが重要だ。我々の同僚である習近平氏、マクロン氏、トランプ氏、ジョンソン氏は、5つの核大国、つまり安全保障理事会の常任理事国の首脳会合を開くというロシアの発案に賛同を表明してくれた。我々はこの賛同に感謝し、可能となり次第、こうした顔を合わせての会合が成立するよう願っている。
この、これから行われるサミットの議題を我々がどう見ているかと言うと、まず、国際問題で集団的な行動を進める場合の手順を討議し、平和維持、地球規模の、そして地域の安全保障の強化、戦略兵器のコントロール、テロや急進主義など焦眉の脅威に対抗することが合目的的だと思う。
サミットの個別のテーマはグローバル経済の状況、それもまず、コロナウイルスのパンデミックにより引き起こされた経済危機の克服である。我々諸国は市民の健康と命を守るため、困難な生活状況に陥ってしまった人々を支援するための前代未聞の措置を講じている。だが、パンデミックの影響がこの先、どれだけ重いものとなるか、グローバル経済が景気後退からどれだけ早く抜け出せるかは、我々に真のパートナーとして力を合わせ、協調して働く力があるかにかかっている。
ロシアが提案する常設の「5人組」サミットの議題は我々諸国にも、そして世界全体にも絶対的に重要かつ焦眉なものである。そしてその全ての項目ごとに我々は具体的な考え、イニシアチブを用意している。
ロシア、中国、フランス、米国、英国によるサミットが現代の要請と脅威への共通の答えを探す上で重要な役割を演じること、父たち、祖父たちがそれがために肩を並べて共に戦った人道的な高い理想と価値で連合の精神への共通の忠誠をアピールすることは疑いようもない。
共通の歴史の記憶を頼りとすることで我々は互いを信用することができる、また信用せねばならない。これは、地球の安定と安全を強化し、あらゆる国家の繁栄と福祉を目指して好成果をもたらす交渉と協調行動をとる上で強固な基礎となるだろう。全世界を前にした、今の、そして未来の世代を前にした我々の共通の責務はこれにつきるといっても過言ではない。